HOME世界の偉人館 現在:PC版スマホ版へ移動 今日の運勢館おすすめおみくじ占い館
日本の偉人世界の偉人分野別偉人人気順偉人地域別偉人
世界の国世界の変革世界の賞偉人の名言サイト情報  
 

信号様式GIFアニメ アマゾン 信号様式GIFアニメ

 

〔世界の偉人〕

ショパン
(仏: Frederic Francois Chopin)

 

 ショパンは、1810年3月1日、ワルシャワ公国のジェラゾヴァ・ヴォラで生まれた、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。またピアノの名手であり、「ピアノの詩人」とも称された。

 作品の多くはピアノ独奏曲で、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによって、ピアノの表現形式の新たな分野をひらいた。彼の作曲したノクターンやワルツなどのピアノ曲は、クラシック音楽ファン以外の一般人にもよく知られている。

 ショパンの父親は、1787年、ロレーヌからポーランドに移住してきたフランス人である。1810年10月、ショパンが7か月の時、父親がワルシャワ学院でフランス語を教えることとなったため、家族はワルシャワに移住する。一家は、学院の所在地、サクソン宮殿の庭園に住むことになった。


 その後の1817年、サクソン宮殿が軍用地として徴収され、学院はカジミール宮殿へと移動を余儀なくされた。ここには、新たに設立されたワルシャワ大学も入居していた。一家は隣接する建物の二階で広々と暮らすことになる。ショパンは、ワルシャワ学院に1823年から1826年にかけて通っていた。



 ショパンは、パリではフランス語が苦手であり、フランス語を完全にマスターすることができなかったという。

 彼の家族は全員が音楽の才能に恵まれていたが、父親はフルートとヴァイオリンを演奏できたし、母親はピアノが得意であった。ショパンは幼少時より音楽に親しむ環境が整っていたのである。ショパンは姉のルドヴィカからピアノを教えてもらった。

 1816年から1822年にかけて、ショパンがピアノを本格的に習ったのは、チェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィであった。ショパンはたちまち師匠を凌駕してしまい、わずか7歳にして公開演奏をするようになり、瞬く間に神童モーツァルトやベートーヴェンと比較される存在となった。7歳のショパンは、ト短調と変ロ長調の2つのポロネーズを作曲した。


 11歳の時、ショパンは、議会の開会のためにワルシャワ訪問中のロシア皇帝アレクサンドル1世の前で演奏を披露した。1820年代、ワルシャワ学院とワルシャワ音楽院に通学中のショパンは、休暇の度にワルシャワから離れて各地を訪れている。中でも、シャファルニャ村とその周辺の町では、ショパンは民謡に触れていて、その経験が後に彼の作品へ大きな影響を与えている。

 1825年、即興演奏も交えながらイグナーツ・モシェレスの曲を弾くと聴衆を魅了し、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛された。ショパンは、1826年にワルシャワ音楽院で3年間の教育課程に入るが、作曲家ユゼフ・エルスネルに師事し音楽理論、通奏低音、作曲の勉強を開始する。ショパンは、「顕著な才能」そして「音楽の天才」との評価をうける。

 1828年、ショパンの活躍の場はひろがっていく。家族付き合いの仲だった動物学者のフェリクス・ヤロツキと同行してベルリンに行き、それまで馴染みのないオペラを鑑賞したり、メンデルスゾーンなどと出会い、楽しく過ごした。

 1829年8月、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、ショパンはウィーンで華やかなデビューを果たす。演奏家、作曲家として頭角を現したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。

 1831年9月、ウィーンからパリに移動した。その後、彼は二度とポーランドに帰国することはなかった。翌年2月の演奏会では、多くの賞賛を受け、この地でショパンは多くの芸術家や著名人と出会い、才能を磨く機会を得ることになる。たちまち、多くのピアノの弟子ができ、大きな収入も得るようになる。

 こうして、ショパンは、ベルリオーズやリスト、ベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロワ、チャルトリスキ公、ヴィニー、アルカンらと交友するようになる。

 フランスでは、1835年8月1日付けの旅券で旅をしていて、これを境にショパンはフランスの市民となった。ショパンはパリで公開演奏会を行うことはほとんどなく、よく演奏をしたのは、貴族や芸術、文学のエリートの集まる場、サロンでだった。

 ショパンは好きになった女性マリアがいて婚約もしたが、ショパン自身の健康状態が悪かったことなどから、結婚は実現しなかった。彼女を慕う曲をいくつか書いている。ショパンはこの後も別の女性サンドと激しい恋愛を経験し、いくつかの曲を書いている。サンドとは結婚はしなかったが、10年ほどの特別な関係が続いた。

 その後、1845年ころには、ショパンの体調は非常に悪くなる一方であった。ショパンの人気は翳りを見せ、弟子の数も減少する状況の中、1848年にパリでの最後の演奏会を開いた。

 彼はロンドンへと旅立ち、いくつかのコンサートを大規模な会場で行うと、大きな喝采を受けた。しかし、彼の健康状態はとても悪く、階段の上り下りも誰かの手助けなしにはおぼつかない状態であった。

 1848年10月の暮れ、ショパンは友人のヴォイチェフ・グジマワに宛てに、最後の遺言をしたためた。「万一私がどこかで急死するようなことになったら、私の原稿は処分がなされるように」と。自分の死期を悟ったとき、ショパンは紙片を要求し、そこにこう記した。

 「土に押しつぶされるから埋葬しないで欲しい。生き埋めになりたくないんだ。」

 1849年10月17日の深夜、医師がショパンにひどく苦しいかと尋ねたとき、ショパンは「もう何も感じない」と答えた。そして、午前2時を回る少し前に息を引き取った。死亡診断書には、死因は肺結核であるとされている。


偉人のプロフィール

〔ショパン〕のプロフィール。

〔ショパン〕

ショパンの肖像・写真 
(出典:wikipedia)

プロフィール
通称 ショパン
本名 フレデリック・フランソワ・ショパン
(フランス語: Frederic Francois Chopin 、ポーランド語: Fryderyk Franciszek Chopin)
別名

ピアノの詩人

受賞歴
時代
生誕 1810年3月1日・ポーランド:ジェラゾヴァ・ヴォラ
死没 1849年10月17日・フランス:パリ
国籍 ポーランド・フランス
言語
居住地
学歴
職業 〔職業〕


分野
所属
業績
作品 〔作品番号一覧〕
1 ロンド ハ短調
2 モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の主題による変奏曲 変ロ長調
3 序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調
4 ピアノソナタ第1番 ハ短調
5 マズルカ風ロンド ヘ長調
6 4つのマズルカ
7 5つのマズルカ
8 ピアノ三重奏曲 ト短調
9 3つの夜想曲
10 12の練習曲
11 ピアノ協奏曲第1番 ホ短調
12 華麗なる変奏曲 変ロ長調
13 ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調
14 ロンド・クラコヴィアク ヘ長調
15 3つの夜想曲
16 ロンド 変ホ長調
17 4つのマズルカ
18 ワルツ 変ホ長調『華麗なる大円舞曲』
19 ボレロ ハ長調
20 スケルツォ第1番 ロ短調
21 ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調
22 アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調
23 バラード第1番 ト短調
24 4つのマズルカ
25 12の練習曲
26 2つのポロネーズ
27 2つの夜想曲
28 24の前奏曲
29 即興曲第1番 変イ長調
30 4つのマズルカ
31 スケルツォ第2番 変ロ短調
32 2つの夜想曲
33 4つのマズルカ
34 3つの華麗なる円舞曲
35 ピアノソナタ第2番 変ロ短調『葬送行進曲付き』
36 即興曲第2番 嬰ヘ長調
37 2つの夜想曲
38 バラード第2番 ヘ長調
39 スケルツォ第3番 嬰ハ短調
40 2つのポロネーズ
41 4つのマズルカ
27 ホ短調
28 ロ長調
29 変イ長調
30 4つのマズルカ
31 スケルツォ第2番 変ロ短調
32 2つの夜想曲
33 4つのマズルカ
34 3つの華麗なる円舞曲
35 ピアノソナタ第2番 変ロ短調『葬送行進曲付き』
36 即興曲第2番 嬰ヘ長調
37 2つの夜想曲
38 バラード第2番 ヘ長調
39 スケルツォ第3番 嬰ハ短調
40 2つのポロネーズ
41 4つのマズルカ
42 ワルツ 変イ長調
43 タランテラ 変イ長調
44 ポロネーズ 嬰ヘ短調
45 前奏曲 嬰ハ短調
46 演奏会用アレグロ イ長調
47 バラード第3番 変イ長調
48 2つの夜想曲
49 幻想曲 ヘ短調
50 3つのマズルカ
51 即興曲第3番 変ト長調
52 バラード第4番 ヘ短調
53 ポロネーズ 変イ長調
54 スケルツォ第4番 ホ長調
55 2つの夜想曲
56 3つのマズルカ
57 子守歌 変ニ長調
58 ピアノソナタ第3番 ロ短調
59 3つのマズルカ
60 舟歌 嬰ヘ長調
61 ポロネーズ 変イ長調『幻想』
62 2つの夜想曲
63 3つのマズルカ
64 3つのワルツ
65 チェロソナタ ト短調
66 即興曲第4番 嬰ハ短調『幻想即興曲』
67 4つのマズルカ
68 4つのマズルカ
69 2つのワルツ
70 3つのワルツ
71 3つのポロネーズ
72-1 夜想曲 ホ短調
72-2 葬送行進曲 ハ短調
72-3 3つのエコセーズ
73 ロンド ハ長調
74 17の歌曲
74-2b 春(アンダンティーノ) ト短調

名言 〔ショパンの名言〕



サイト
その他

〔紙幣〕

 彼の肖像が、1988年からポーランドで発行されていた5000ズウォティ紙幣に使用されていた。また、2010年にもショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣が発行されている。(ウイキペディア)

〔似顔絵〕

 学校に通っていた折り、先生の似顔絵を上手に描き、先生は驚きとともに喜んだという逸話が残っている。