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〔世界の偉人〕

ガロア
(Evariste Galois)

 

 エヴァリスト・ガロアは、フランスの天才的数学者であり革命家です。優れた数学的才能を発揮し、10代にして〔ガロア理論〕と呼ばれることになる群論や体論の先駆的研究を行いました。

 ガロア理論により、方程式が代数的解の表示を有するかについて完璧な理論を構築しました。


 ガロアは自らが構築したガロア理論(群論)により、五次以上の代数方程式には一般的代数解の公式が存在しないことを証明しました。

 それ以前には、五次以上の代数方程式には、一般的な代数的解の公式が存在しないことは、ニールス・アーベルによって証明されていて、アーベル-ルフィニの定理として知られていました。ガロアは、これを彼の構築した群論を用いて大幅に簡略化した形で証明しました。



 また、一般の代数方程式がどのような条件下で代数的解(解の公式)を有するかを解明しました。彼は、数学史上初めてカテゴリー論的操作をして完璧な理論を作ったことで数学史上の天才とされています。

 ガロアの業績は、あまりにも先見的だったために、当時世界最高の研究機関であるパリ科学アカデミーで認識されることがありませんでした。それどころか、後に数学の超天才と称されるようになる、カール・フリードリヒ・ガウスでさえ理解できなかったといいます。


 残念ながら、ガロアの理論は、生前に評価されることはなかったのです。しかし、その後、長い時間を経て彼の理論の重要性が認識されるようになり、応用されるようになったのです。

 ガロア理論は、現代数学の幕開けとなるとともに、20世紀、21世紀数学、科学分野で燦然と輝いています。

 アインシュタインの特殊相対性理論でのローレンツ群やハイゼンベルグらの量子力学などに代表される現代物理学を記述する言葉として、群論は不可欠なものとなっています。ガロア理論の思想は、近年の数学、物理学、コンピュータ技術などにおける、誤り訂正符号(ECC)や疑似乱数列(PN)などとして応用されています。

 実は、ガロアは非常に短い激動の生涯を送ったことで知られています。この天才は、1832年、決闘により僅か20歳の若さで夭折したのでした。

 彼の生涯については、死後60年以上も経過した1896年になって、高等師範学校の歴史学教授ポール・デュピュイの論文『エヴァリスト・ガロアの生涯』によって明らかにされました。デュビュイは、ガロアの母型の親戚や、当時まだ生存していたガロアの学友から証言を得て、論文を完成したのです。

 ガロアの遺書には、その後の数学者や物理学者の重要な研究対象となる理論の想いが記されています。

 彼は、代数的には解けない五次以上の代数方程式の解を与える、楕円モジュラー関数による超越的解の公式の存在を予言しています。この彼の遺書には、「僕にはもう時間が無い」という言葉が書き添えられていました。

 そして、彼の死後50年の時を経て、その予言は、シャルル・エルミートによって確立されたのでした。


この偉人のプロフィール

〔ガロア〕のプロフィール。

〔ガロア〕

ガロアの肖像・写真 
(出典:wikipedia)

プロフィール
通称  ガロア、ガロワ
本名  エヴァリスト・ガロア
 (英語表記:galois, evariste galois)
別名

受賞歴
時代
生誕  1811年10月25日
死没  1832年5月31日(満20歳没)
 フランス パリ。決闘による腹膜炎による死去

国籍  フランス
言語  フランス語
出身地  フランス:フランス ブール=ラ=レーヌ
居住地  フランス
学歴  高等師範学校:リセ・ルイ=ル=グラン
職業  家庭教師
 サント・ペラジー刑務所収監時のガロアに関する記録。

分野  数学(代数学。整数論)
所属  共和主義者による「民衆の友の会」
業績  ガロア理論、楕円関数論、群論、連分数
 多項式の方程式を解くための条件を解明

作品
名言 〔ガロアの名言〕

「僕にはもう時間が無い」

サイト
その他


偉人の名言

〔ガロア〕の残した名言。

夭折の天才ガロア
ガロアの残した遺言
ガロアの遺言

 政治活動に夢中になっていたガロアはある女性に恋をしたが、これが原因で二人の愛国者から決闘を申し込まれた。

 ガロアは、別れを告げるために共和主義者へ2通の手紙などを残したのだった。そこには「僕にはもう時間がない」との走り書きが添えられていました。

 決闘はパリ郊外の沼の辺りで行われ、負傷した彼はその場に放置されました。翌朝、農夫に発見され病院に運ばれたが、腹膜炎を起こしその翌日には死去してしまいます。

 急を聞いて病院に駆け付けた弟のアルフレッドの涙する姿を見て、ガロアは最後の言葉をこういったという。

 『泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、ありったけの勇気が要るのだから。』

 モンパルナスの共同墓地で行われた彼の葬儀には、2000~3000人の共和主義者が参列したという。現在、その墓地は消滅してしまったが、1982年には、没後150年を記念してブール=ラ=レーヌに墓碑が建てられた。

ガロアの残した詩

 ガロアと同じ共和主義者のオーギュスト・シュヴァリエが1832年に『百科評論雑誌』に寄せた記述によれば、ガロアが残したノートに以下の詩が書かれていたという。

  久遠の糸杉が私を囲む
  色褪せた秋よりもなお青ざめて
  私は自ら墓場へ赴く