〔し〕で始まる日本の偉人 |
〔し〕で始まる日本の偉人には、その後の日本の歴史に影響を与えた多くの人たちがいます。 ・聖徳太子 ・司馬遼太郎 ・志賀直哉 ・柴田勝家 ・十返舎一九 ・渋沢栄一 ・親鸞 ・島崎藤村 ・島津久光 ・島木赤彦 ・白瀬矗 ・白川英樹 ・ジャイアント馬場 |
〔し〕で始まる日本の偉人 |
〔し〕で始まる日本の偉人には、その後の日本の歴史に影響を与えた多くの人たちがいます。 ・聖徳太子 ・司馬遼太郎 ・志賀直哉 ・柴田勝家 ・十返舎一九 ・渋沢栄一 ・親鸞 ・島崎藤村 ・島津久光 ・島木赤彦 ・白瀬矗 ・白川英樹 ・ジャイアント馬場 |
◆〔し〕で始まる偉人概要の説明。 |
ジャイアント馬場 |
日本のプロレスラー・プロ野球選手・タレントで、全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任。日本のプロレス界史上で最大の巨体の持ち主で、力道山やアントニオ猪木と並んで有名な人物である。 |
|
司馬遼太郎 |
司馬遼太郎は、大阪府大阪市生出身の小説家でありノンフィクション作家、評論家である。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞し作家としての頭角を現した。 幼少時は軟弱だったが、小学校に通う頃には学校嫌いな腕白小僧であったという。中高時代も学業成績はビリではないがトップでもなかったようだ。この頃にあらゆる種類の書籍を読破したという。司馬遷の『史記』を愛読し、彼の筆名にも影響した。彼の座右の銘は「中庸の徳」だという。 司馬遼太郎代表作には戦国・幕末・明治を扱った作品が多いが、『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。 |
|
志賀直哉 |
志賀直哉は、宮城県石巻市生まれ、東京府育ちの明治から昭和にかけて活躍した小説家である。白樺派を代表する小説家のひとりで、後の時代の多くの日本人作家に影響を与えたとされる。志賀直哉の祖父は、古河財閥創始者古河市兵衛と共に足尾銅山の開発をした人物であり、。二宮尊徳の門人だったという。 東京帝国大学文学部英文学科入学、国文学科に転じるが大学は中退する。代表作に『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』などがある。彼の唯一の長編小説『暗夜行路』は、近代日本文学の代表作の一つである。 |
|
柴田勝家 |
柴田勝家は、大永2年(1522年)、尾張国愛知郡上社村で出生したとされる、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり大名である。織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を治めていた。信秀の死後は、織田信行(信勝)に家老として仕える。 信秀の後継者を信行にせんと、信長を排除しようと画策するが、信長との戦いに敗れ降伏する。信行の死後に罪を許され、信長の家臣となる。徐々に信長の重臣として武功を挙げるようになる。その後も加賀一向一揆を制圧するなど、信長の家臣として多くの戦に参戦している。 本能寺の変で信長が横死すると、清州会議での信長の後継者争いに破れ、秀吉と勝家の立場が逆転する。その後、お市の方と結婚するが、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、お市とともに自害して果てる。 |
|
十返舎一九 |
十返舎一九は、駿河国府中出身の江戸時代後期の戯作者、浮世絵師である。有名な『東海道中膝栗毛』の作者として知られ、日本で最初に文筆のみで生計を立てた人物として知られる。 江戸で武家奉公し、その後大坂に渡って大坂町奉行などで働くが浪人し、義太夫語りの家で世話になって浄瑠璃作家となる。30歳で江戸に戻り、今度は版元・蔦屋重三郎方で世話になって挿絵描きなどを手伝う。蔦屋に勧められて黄表紙などを出版する生活を20年以上続ける。 そして、享和2年(1802年)に運命の作品『東海道中膝栗毛』が大ヒットを博し、一世を風靡する作家となった。その後も『膝栗毛』の続編を描き続けた。 |
|
渋沢栄一 |
渋沢栄一は、天保11年(1840年)武蔵国榛沢郡血洗島村に生まれた、幕末から大正初期にかけての日本の武士、幕臣であり官僚、実業家でもある。第一国立銀行や東京証券取引所など多くの企業の設立に関わり、日本資本主義の父ともいわれている。 渋沢家は元々豪農であり、栄一は若い頃から経済的訓練を受けて育った。父親の影響で幼少時より読書をたしなみ、四書五経や『日本外史』を学んでいる。やがて、一橋慶喜に仕え農兵の募集に携わるが、慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席するチャンスを得る。 ヨーロッパ各地で先進的な産業や軍備を実見し感名を受ける。帰国後、明治新政府のもと、大蔵省に入省し、大蔵官僚として多くの改革を実行する。多くの地方銀行や企業などの創設を行った。渋沢はこれだけの業績がありながら〔渋沢財閥〕を創らなかった点で他の財閥創設者とは異なる。 |
|
親鸞 |
親鸞は、承安3年(1173年)、現在の法界寺、日野誕生院付近で出生した、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧である。浄土真宗の宗祖とされる。法然を師と仰ぎ、法然による〔浄土往生を説く真実の教え〕の教えを終生に渡って実践し、さらに高めるよう努力した。 各地に細やかな念仏道場を設けて説教をすることがあっても、独自の寺院を持つことはしなかった。親鸞の思想は、彼の没後になって宗旨として確立される事になる。『顕浄土真実教行証文類』が完成する寛元5年(1247年)が、浄土真宗の立教開宗の年とされるが、これは親鸞の没後のことである。 |
|
聖徳太子 |
飛鳥時代の皇族で政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称がある。推古天皇の治世下、蘇我馬子と協調し国際的緊張のなかで遣隋使を派遣し大陸の進んだ文化や制度をとり入れ冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇中心の中央集権国家体制を確立した。 |
|
島崎藤村 |
島崎藤村は、信州木曾の中山道馬籠出身の詩人であり小説家である。『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版したことで知られる。 島崎家の先祖は、相模国三浦半島津久井発祥の三浦氏の一族である。藤村は、父親から『孝経』や『論語』を学んだ。明治学院普通部本科に入学する。卒業後、20歳で明治女学校高等科英語科教師となる。雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表する。藤村の代表作には、小説『破戒』『春』『家』『新生』『夜明け前』などがある。 |
|
島津久光 |
島津久光は、重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主であり、幕末から明治時代初期での日本の政治家である。幕末の薩摩藩での事実上の最高権力者として公武合体運動を推進したことで知られ、明治新政府では内閣顧問、左大臣を歴任している。 久光は、文化14年(1817年)薩摩国鹿児島郡で出生する。幾多のことがあって成人し、文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する。しかし、公武合体運動は挫折し、倒幕の決断をすることになり、やがて明治維新を迎えた。 |
|
島木赤彦 |
島木赤彦は、明治9年(1876年)長野県諏訪郡上諏訪村角間生まれの明治・大正時代のアララギ派歌人である。家は元々は諏訪藩士であったが、父親は明治維新後には教員をしていた。赤彦は貧しいながらも自然や優しい家族のもとで伸び伸びと育った。 赤彦は祖母から百人一首を教えられ、5歳で暗唱するほどであった。諏訪小学校高等科を卒業し諏訪育英会に入り、泉野小学校、玉川小学校の代用教員を務めた、和歌や俳句をたしなむようになる。赤彦の代表歌には次のものがある。 ・月の下の光さびしみ踊り子のからだくるりとまはりけるかも (『切火』) ・ひたぶるに我を見たまふみ顔より涎を垂らし給ふ尊さ(『氷魚』) ・信濃路はいつ春ならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ (『柿蔭集』) |
|
島倉千代子 |
島倉千代子は、日本の演歌、歌謡曲の世界を代表する歌手のひとりである。昭和30年代、アイドル的存在として一世を風靡し、その後も極めて長い期間にわたって日本の歌謡世界で活躍した。 高音部のビブラートや浮遊感に富む発声に独特な雰囲気があり、デビューから50年以上を経過した時点まで、第一線の現役人気歌手として大活躍した。彼女はNHK紅白歌合戦に通算で35回出場している。島倉の主なヒット曲には、『人生いろいろ』『からたち日記』『逢いたいなァ あの人に』『ほんきかしら』『りんどう峠』『この世の花』などがある。 |
|
白瀬矗 |
白瀬矗は、文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村出身の陸軍軍人であり南極探検家である。軍人としての最終階級は陸軍輜重兵中尉であった。8歳の頃、平田篤胤の高弟とされる蘭学者の佐々木節斎の寺子屋に入り、読み書きソロバンや四書五経、そしてコロンブスやマゼランの地理探検の話などを学ぶ。11歳の頃には、北極圏の話を聞き、探検家を志すようになる。 北極の前に先ず千島探検を志すようになり、明治26年(1893年)千島探検隊(千島報效義会)に加わる。探検隊は暴風雨で多くの犠牲者をだしながらも白瀬らは最終目的地である占守島に到着し越冬した。苦難の越冬の末に救出される。 明治42年にアメリカ探検隊が北極点踏破するなどの事実を知ると、南極点到達を決意する。イギリススコット隊との競争となる。東郷平八郎によって「開南丸」と命名された船で南極を目指した。明治45年(1912年)南極大陸に上陸、その地点を「開南湾」と命名した。その翌日にスコットが南極点に到達している。南極点到達は断念し極地調査をすることになる。 |
|
白川英樹 |
白川英樹は、1936年、東京府出生の日本の化学者である。東京工業大学工学博士、筑波大学名誉教授、日本学士院会員であり、「導電性高分子の発見と発展」により、2000年にノーベル化学賞を受賞した。 幼少時から家族と共に台湾に渡り、満州で成長したが、終戦後に帰国し高山に戻った。1957年に東京工業大学科学光学科に入学し、高分子物性を研究することになった。その後、「共重合体のブロック鎖に関する研究」で工学博士を取得した。 |
|
東海林太郎 |
東海林太郎は、戦前を代表する日本の歌手である。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動の姿勢で歌う独特な歌唱スタイルで知られている。学業終了後、1923年に南満州鉄道に入社するも、左翼的思想から左遷され、帰国して、一時期中華料理店を経営する。声楽を学び、音楽コンクールで入賞して歌謡界に入った。 1933年、現在のキングレコードで専属歌手となり『河原月夜』『山は夕焼け』などを歌ってデビューする。その翌年には、『赤城の子守歌』を発表して空前の大ヒットを記録する。東海林太郎のヒット曲には『赤城の子守唄』『むらさき小唄』『麦と兵隊』『名月赤城山』『旅笠道中』『野崎小唄』『忠治子守唄』『椰子の実』『琵琶湖哀歌』などがある。 |