これにより、ソヴィエト連邦は、農業国から工業国へと脱皮し、世界第2位の経済大国に躍進する基礎を築いた。一方で、急激な経済構造改革は、多くのひずみを伴い、国民は飢饉などの苦しみを味わうこととなる。農業政策の混乱が深刻な食糧不足を招いたのである。
スターリンの政策に反対する勢力に対しては、厳しい弾圧を行い、非常に多くの犠牲者を出すことになる。強制的な収容所送りとなった者は100万人以上を数え、それを免れた者たち数百万人もがシベリアなどの僻地へ追放された。大規模な反対派摘発が行われ、数十万人もの者が処刑されたり、追放されたりした。
1939年、ナチスドイツが台頭すると、反共主義・反スラブ主義を掲げていたナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結する。秘密議定書に基づく、ソ連によるポーランド侵攻が第二次世界大戦の引き金となる。
やがて、ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合などの軍事行動に成功する。アジア方面では、ドイツと同じ枢軸国である日本とも日ソ中立条約を結ぶ。
1941年、第二次世界大戦で中立の立場にいたソ連だったが、ドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まる。そして、イギリスを中心とする連合国陣営にも参加する。戦争は長期化し苦戦したが、最終的にはドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面では対日参戦して、満州を攻略、日本の北方領土を奪い取った。
第二次世界大戦でのソ連の役割は強大で、ソ連は国際連合安全保障理事会常任理事国となった。ソ連は米国と並ぶ超大国として君臨するようになる。
ファシズム打倒後の戦後、共産主義と資本主義の対立が鮮明になる。米国が西欧諸国と北大西洋条約機構を結成すると、ソ連は東欧諸国とワルシャワ条約機構を結成する。こうして、その後長年にわたり続く、共産主義と資本主義の対峙する冷戦が始まるのである。
1953年3月1日、ラヴレンチー・ベリヤ、ゲオルギー・マレンコフ、ニコライ・ブルガーニン、ニキータ・フルシチョフとの徹夜の夕食の後、寝室において脳卒中発作で倒れる。一時的に意識が戻るが会話はできず、4日後の3月5日に死去した。
死後に展開された権力闘争の結果、ニキータ・フルシチョフが権力の座につくと、スターリン派に対する批判が展開され始めた。スターリンは偉大は国家指導者の座から転落し、恐るべき非道の独裁者の烙印を押される。
しかし、現在でもスターリンの評価は、二分している。彼は、恐るべき独裁者なのか、それとも偉大な指導者・英雄なのか、意見は混在しているのである。
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