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〔世界の偉人〕

コロンブス
(Christopher Columbus)

 

 コロンブスは、イタリアのジェノヴァ出身とされる探検家・航海者である。大航海時代、世界最初にアメリカ海域へ到達した。アメリカ大陸の発見者として崇められる反面、原住民に対する残虐な行為には目を覆いたくなるものがある。

 これが征服者の常なのだろうか。人々は彼を偉大な探検家と呼ぶ。アメリカがいくら偉大だといっても、その原点は殺戮行為から始まったのである。

 正直言って、当サイトの管理人である筆者は、アメリカを偉大な国と単純に考えていたが、コロンブスの行った人道に反する残虐行為の数々を知り、ある意味、失望が走った。日米戦争において、原爆によって駄目押しした悪の原点を見た気がする。



 コロンブスは、ジェノヴァもしくはその近郊で生誕したとされるが、それほど確たる証拠はなく、異説も多い。彼は10代の頃から父親の船で航海に出たとされ、海とのかかわりを持ちながら育った。第一次航海誌では、1475年から翌年にかけて、ロクサーナ号でエーゲ海のキオス島へ行き乳香取引に関わったと述べている。

 1476年には、ジェノヴァ商人団の一員として、乳香をイギリスなどに輸入する商船隊に参加した。しかし、この船団はブルゴーニュ旗を掲げていたため、当時敵対関係にあったフランス艦船から攻撃され沈没してしまう。コロンブスは何とか生存し、ポルトガルのラゴスまで泳ぎ着く。


 彼は、1477年以降、弟のバルトロメが住むリスボンに移り、地図作成販売などを行いながら、何度も航海に加わっている。コロンブスは、スペイン語やラテン語や天文学、地理、そして航海術の修得に努める。

 その時代には、既に地球は球体であることが信じられていた。トスカネッリという人物が、マルコ・ポーロの考えに従い、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はそれほど遠くないと主張していた。

 コロンブスは、マルコポーロの『東方見聞録』に強く惹かれ、西回りでアジアに到達することを計画するようになる。知りえる多くの情報を考察して、コロンブスは西廻り航海が可能だとして、次のような5つの根拠を掲げている。

1  地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。
2  地球の未知の部分はアジア東端からベルデ岬諸島以西だけになった。
3  2世紀のギリシャの地理学者、マリヌスの説では、ヨーロッパからアジアまでは地球の15/24に当たるとしていたことから、未知の領域は、9/24(約1/3)に相当するはずだ。
4  マリヌスが認識するアジアは、当時の認識としてのアジア東端までに比すれば狭いはずで、未知の領域はさらに狭くなるはずだ。
5  9世紀のイスラム人天文学者、アルフラガヌスは経度1度=約56.6マイルと計算していた。これから推論すれば、未知の領域は、56.6×360/3=約6800マイルとなる。しかも、これは赤道上での計算であり、北寄航路ならば距離はさらに縮まる。


 コロンブスは、ポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を求めたが、紆余曲折の後に、王室への提案は否決された。その後、コロンブスは、リスボンから海路、スペインのパロスに着き、そこでラビダ修道院を訪ねる。修道院長はコロンブスの話しに感銘を受け、その紹介により、最終的にメディナ・セリ公、ドン・ルイス・デ・ラ・セルダに紹介される。

 そして、メディナ・セリ公はコロンブスに数隻の船と食料など多くの物資を提供すると約束する。しかし、セリ公は、このような計画には王室の許可が必要と考え、イサベル1世へ計画を知らせる。その後多くの王侯貴族たちの間でさまざまな検討が加えれれ、最終的に否決されてしまう。

 失意のコロンブスであったが、ここで、財務長官ルイス・デ・サンタンヘルと接触することになる。長官は、コロンブスの提案は、十分可能性があると理解し、必要な経費も自らが都合をつけると約束する。

 ムーア人の最後の拠点であったグラナダが、1492年1月2日に陥落したことで、スペインに財政上の余裕ができたこともあり、フェルナンド2世は、ついにコロンブスの計画を承認する。1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにおいて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結する。

 コロンブスは、発見した土地の終身提督となり、この地位は相続されるとし、提督領での利益の10%はコロンブスの取り分とすることなどが定められた。

 1492年8月3日、コロンブスは、大西洋をインドに向けてバロス港を出港する。その編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻に総乗組員数は約90人であった。

 一旦、カナリア諸島へ寄港し、大航海の準備を整えた後、西進を開始した。極端に島数の少ない大西洋での船旅で、船員たちに不安が募り、10月6日には小規模な暴動も起こった。

 船員たちは、あと3日で陸地が発見できなければ引き返すとコロンブスに約束させる。そして、10月11日の日付が変わろうとするとき、遂に、ピンタ号の水夫が陸地を発見する。翌朝、その島に上陸したコロンブスは、原住民たちを征服し、この島をサン・サルバドル島と名づけた。

 コロンブスは、続いてキューバ島を発見し、「フアナ島」と名付ける。12月6日には、イスパニョーラ島と名付ける島に到達する。24日にはサンタ・マリア号が座礁してしまうが、その残骸により要塞を築き、アメリカでのスペイン最初の入植地を作った。ここには39名の男性が残った。

 そして、1月16日には、スペインへの帰還を目指し、3月15日にはパロス港へ帰還した。無事生還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。契約により、コロンブスは、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰うこととなった。

 1493年9月、コロンブスは二度目の航海に出航した。今度は、その乗組員の数は農民や坑夫も含めて1500人であった。彼の意図は植民目的であった。11月にはドミニカ島と命名する島に到達したが、前の航海で作った植民地は原住民インディアンたちにより破壊され、残した人間は全て殺害されていた。

 ここを放棄すると、コロンブスは、新たに「イサベル植民地」を築いた。入植者たちの間では不満が鬱積した。一方で、周辺諸島では、原住民種族たちが白人に対して怒りを燃えさせていた。

 コロンブス率いるスペイン軍は、行く先々の島々で、ありとあらゆる残虐行為、虐殺、弾圧を繰り返した。軍勢は、窃盗、殺人、強姦、放火、拷問を行い、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。

 インディアンはゲリラ戦を試みるも、スペイン軍の圧倒的軍事力と白人が持ち込んだ疫病により苦しめられ、逃亡し飢餓に苦しむしか方法がなかった。コロンブスは、数百人の装甲兵と騎兵隊、軍用犬による一大軍団を組織した。非武装のインディアンの村々を次々と攻撃し、数千人単位の虐殺を行い壊滅させた。このような虐殺行為はその後も10年間にわたって繰り返された。


偉人のプロフィール

〔コロンブス〕のプロフィール。

〔コロンブス〕

コロンブスの肖像・写真 
(出典:wikipedia)

プロフィール
通称 コロンブス
本名 クリストファー・コロンブス
(英語:Christopher Columbus、伊: Cristoforo Colombo、羅: Christophorus Columbus、西: Cristobal Colon、葡: Cristovao Colombo)
別名

受賞歴
時代
生誕 1451年頃・ジェノヴァ共和国:ジェノヴァ
死没 1506年5月20日・カスティーリャ王国:バリャドリッド
国籍 イタリア
言語 イタリア語・スペイン語・ラテン語
居住地
学歴
職業 探検家・航海者・コンキスタドール・奴隷商人
分野 〔探検〕

 ・世界で最初にアメリカ大陸発見

所属
業績 〔業績〕

 ・アメリカ大陸発見
 ・アメリカにスペイン領最初の植民地構築

作品
名言 〔コロンブスの名言〕



サイト
その他

〔コロンブスの卵〕

 新大陸発見を祝う凱旋式典での出来事にこんなことがあった。

 コロンブスの成功を妬む人物が、「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」と言った。

 これに対して、コロンブスは、卵を取り出し、「誰かこの卵を机に立ててみてください」といった。誰もできなかった後で、コロンブスは、卵の先の部分を机でコツンと潰してから、立ててみせた。

 「そんな方法なら誰でも出来る」と人々が言うと、コロンブスは「人のした後では造作も無いことです」と返した。

 これが〔コロンブスの卵〕の逸話である。簡単なことでも最初にやることこそ意義があり、真似ならだれでもできるのである。