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〔世界の偉人〕

コルテス
(スペイン語: Hernan Cortes de Monroy y Pizarro)

 

 コルテスは、スペインのコンキスタドールである。コンキスタドールとは「征服者」の意味で、特にスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す言葉である。彼は、メキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した。

 1485年、コルテスは、現在のスペインのエストレマドゥーラ地方メデジンで生誕した。彼は、イスパニョーラ島の統治者であったニコラス・デ・オバンドの遠戚にあたる。サラマンカ大学に入学し、法律家を目指したが、それは実現しなかった。



 その時代、新大陸から帰還した者たちの、新大陸での発見や征服、金、原住民などの話を聞くなどで、新大陸に関する知識を得る。

 1504年、18歳のコルテスは、アロンソ・キンテーロが率いる船でイスパニョーラ島に渡り植民者となった。そこでキンテーロが第一発見者となるべく用いたライバルを騙したり陥れる手法を学んだとされ、これが後の彼のアステカ征服戦略に影響したという。

 コルテスは、イスパニョーラ島の首都サント・ドミンゴで市民登録し、建物の建設や土地の耕作権利を取得する。統治者ニコラス・デ・オバンドからエンコミエンダ制の権益をもらい、アスーア・デ・コンポステーラの町の公証人となる。


コルテスの征服路 
コルテスの征服路(出典:wikipedia)

テノチティトラン 
テノチティトラン
(出典:wikipedia)

1628年のメキシコシティ 
1628年のメキシコシティ
(出典:wikipedia)


 ここで5年間、植民地での地位確立のため働き、1506年にはイスパニョーラ島とキューバの遠征に参加して、多くの不動産とインディアンの奴隷を獲得した。

 1511年、ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルのキューバ征服に参加し、勇猛果敢に戦い、ベラスケスがキューバの統治者となることに貢献する。この功績でコルテスは、ベラスケスの秘書官となり、絶大な力を手に入れる。

 時が流れ、統治者ベラスケスとコルテスとは緊張関係になっていく。そんな中、1519年、コルテスはベラスケスの命に反して、500人の兵、帆船11隻を率いてメキシコ湾岸沿いに進み、タバスコ川に到着、原住民との戦いに勝利する。

 コルテスは、8年前にこの地に漂着したセビリア出身のフランシスコ会の修道士、アギラールと出会う。アギラールは奴隷として働いていたが、その間にマヤ語を話せるようになっていた。コルテスは、その地の酋長の娘マリンチェとも出会い、アギラールとその娘とを通訳兼案内人として先へ進んだ。

 このとき、コルテスは深謀遠慮の末、兵たちの逃亡を防ぐために、1519年7月26日、自分たちの乗ってきた船を悉く焼き払って沈めてしまう。背水の陣を敷いたのだった。

 8月にはメキシコ湾岸にベラクルス市を建設し、更に内陸へと侵攻した。メキシコ高原に到達すると、当時過酷な税制で苦しめられていたアステカ支配下の諸種族と和睦・同盟を結びながら、アステカへと侵攻を進める。

 10月16日、チョルーラという大きな町での大虐殺が起こる。アステカの第9代の君主モクテスマ2世が、チョルーラの首長たちにコルテスをだまし討ちするよう命じたことを察知し、コルテスはチョルーラ人の殺害を命じた。チョルーラとその周囲の領主たちは、大神官が率いる神官全員の行列を先頭にして、丁重に、しかも、恭しくキリスト教徒たちを出迎えた。

 スペイン人たちは、その場で彼らをことごとく虐殺したのだった。このチョルーラの大虐殺事件に、アステカは震え上がったという。この虐殺においてスペイン人の確かな報告はない。


 コルテスは、インディオたちから、白い神ケツァルコアトルの化身に違いないと勘違いされることになる。アステカ王モクテスマ2世は、「国をお返しします」と言ってコルテスを丁重に迎える。

 コルテスは6日間にわたって、アステカの首都テノチティトランを案内された。この際、血塗られた神殿においては、まだ動いている心臓が銀の皿に乗せられていたという。

 モクテスマ2世が、貴族たちから弱腰を責められ、スペイン人たちに立ち去るよう要求すると、コルテスは一部の兵を残してテノチティトランから立ち去る。コルテスが体制を整え再びテノチティトランに戻ってくると、残した兵たちが祭典中のアステカ人を虐殺し、激怒したアステカ人たちが反乱を起こしていた。

 1520年6月29日、コルテスはモクテスマ2世に反乱者たちを鎮めさせようとするが、逆に激怒した市民たちがモクテスマ2世を殺害してしまう。

 暴動がますます拡大する中、6月30日には、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出したが、約1000人のスペイン人が殺害された。この事件はスペイン側では〔悲しき夜(ノチェ・トリステ)〕と呼ばれている。

 コルテス一行は、7月7日にアステカ軍に追撃されたが、これを大破する。7月12日、コルテスはトラスカラに到着し、テノチティトラン攻略の準備を進める。

 一方のアステカでは、新王クイトラワックが選ばれたが、スペイン人がもたらした天然痘により、在位わずか80日で死んでしまう。そして、25歳の勇敢な戦士、クアウテモックが王位についた。

 1521年、コルテスは5万以上のスペイン兵やトラスカラ・テスココの連合軍を率いて、アステカに侵入する。4月28日にテノチティトランを包囲、3か月以上の攻防戦の末、8月13日にテノチティトランは陥落する。

 1521年8月13日、たつてのテノチティトランはメキシコシティに改名される。アステカ征服後、自ら広大な土地を手に入れるだけでなく、部下たちに土地を分配する。これにより、スペインによるアメリカ大陸の植民地支配時代が始まる。

 1525年2月26日、反乱を企てたとの疑いで、アステカ王クアウテモックを絞首刑に処する。ここにアステカは滅亡し、メキシコはスペインに併合された。

 1547年12月2日、コルテスは62歳で死去し、遺体は遺言により、メキシコシティに自身が建てたへスース病院内の礼拝堂に埋葬された。


偉人のプロフィール

〔コルテス〕のプロフィール。

〔コルテス〕

コルテスの肖像・写真 
(出典:wikipedia)

プロフィール
通称 コルテス
本名 エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ
(スペイン語: Hernan Cortes de Monroy y Pizarro)
別名

受賞歴
時代 15世紀末期~16世紀前半
生誕 1485年・カスティーリャ王国:エストレマドゥーラ地方メデジン
死没 1547年12月2日・スペイン王国:カスティジェッハ・デ・ラ・クエスタ
国籍 スペイン
言語 スペイン語
居住地 スペイン
学歴 サラマンカ大学
職業 〔職業〕:コンキスタドール(Conquistador)

<注>コンキスタドールは、スペイン語で「征服者」の意味。特に15~17世紀のスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す言葉。

分野 新大陸征服
所属
業績 アステカ帝国の征服
作品
名言 〔コルテスの名言〕

 チョルーラの大虐殺のとき、コルテスは、荷担ぎ人足という口実で 5000~6000人のインディオを邸の中庭に集め、裸同然の姿にし、スペイン人たちに襲いかかるよう命令した。

 インディオたちが突き刺され虐殺されていく姿を見て、コルテスは古代ローマでのネロの姿を口ずさんだ。

 「ネロはタルピアの丘より炎に包まれているローマの光景を眺める。老いも若きもみな救いを求めて泣き叫ぶ。だが、ネロはいささかの憐れみの情も抱かない」

サイト
その他

・1992年から2002年のユーロ導入まで、スペインで発行されていた最後の1,000ペセタ紙幣の表面に肖像が使用されていた。