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〔世界の偉人〕

ザビエル
(スペイン語: Francisco de Xavier)

 

 ザビエルは、ナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師である。彼は、イエズス会の創設メンバーの1人で、日本に初めてキリスト教を伝道したことで知られる。

 日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロ以上に多くの人々をキリスト教の信仰に導いたとされる。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日である。

 ハビエルは、1506年4月7日、ナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれ、地方貴族の家に育った。父親はナバラ王フアン3世の家臣で宰相を務め、ザビエル誕生の頃、すでに60歳過ぎの高齢であった。




 ナバラ王国は小国で独立を保ってきたが、フランスとスペインの紛争地であり、1515年にはスペインに併合されている。激動の中に父親が他界した後、ザビエル一族は、バスク人、スペイン、フランスがからむ複雑な状況の中に翻弄される。

 1525年、19歳のおり名門のパリ大学に留学、聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学ぶ。フランス出身の若きピエール・ファーヴルやバスク出身のロヨラと知り合う。1534年頃、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すようになる。

 1534年8月15日、ロヨラに感化された7人の青年、ロヨラ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンたちが、モンマルトルの聖堂で、神に生涯を捧げるとの誓いを立てる。


 これがいわゆる「モンマルトルの誓い」であり、イエズス会の創立である。この際のミサは、当時唯一司祭となっていたファーブルが執り行った。

 1537年6月には、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルやロヨラらは司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てたものの国際情勢が悪く果たせていない。

 イエズス会は、世界布教を主眼としていたが、ポルトガル王ジョアン3世の命で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルは、3名のイエズス会員、ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデスとともに、1541年4月7日にリスボンを出発した。

 途中、アフリカのモザンビークを経由して、1542年5月6日にゴアに到着する。ここを拠点にインド各地での宣教の後、1545年9月マラッカに、1546年1月モルッカ諸島で活動を続け、多くの人々に宣教した。マラッカに戻り、1547年12月に、鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人と運命の出会いをする。

 ザビエルは、1548年11月にゴアで宣教監督となる。翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父ほか、中国人、インド人、そしてヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船で、ゴアを出発し日本に向かう。

 一行は、明の上川島を経由し、薩摩半島の坊津に上陸、1549年8月15日には、鹿児島市祇園之洲町に来着した。1549年9月には、伊集院城で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見し宣教の許可を得る。ここで、貴久が仏僧の助言で禁教を考えたため、京にのぼるとして、薩摩を後にする。

 1550年8月、一行は肥前平戸へ、同年10月下旬にはベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸をでる。11月上旬、周防山口に入り無許可で宣教活動を行うも、同年12月17日に周防を立つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸し、豪商の日比屋了珪の知遇を得る。1551年1月、日比屋了珪の支援で京に到着、了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受ける。

 ザビエルは、日本全国での宣教活動の許可を得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝への拝謁を希望したが、献上の品もなく実現できなかった。結局、京での滞在を諦め、1551年3月、山口を経て平戸に戻る。

 ザビエルは、平戸に残していた文物の献上品を携え、1551年4月下旬、大内義隆に再謁見した。献上品は、天皇に捧呈するため用意していたインド総督とゴア司教の親書のほか、日本では手に入らない珍しい文物だった。献上品には、望遠鏡や洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などがあった。日本に眼鏡を初めて持ち込んだのは、ザビエルとされる。

 これを喜んだ義隆は、ザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めるとともに、ザビエル一行の住居兼教会として大道寺を与えた。日本最初の常設教会堂である。ザビエルは一日二回の説教を行い、2か月間に500人ほどの信徒を得た。

 ザビエルは、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの報を受け、豊後に向かい、1551年9月に到着した。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ宣教を行った。

 ザビエルの日本滞在が2年を過ぎるころ、インドでの状況が気になり、1551年11月15日、4人の日本人青年を連れてインドへと出帆し、種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。

 ザビエルは、日本全土での布教には、日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、1552年4月、中国を目指し、同年9月に上川島に到着した。しかし、この地で病を得て、12月3日に他界した。46歳であった。

 彼の遺骨は、現在、東京を含め、マカオ、リスボン、ボルトなどに保管されている。また、ザビエルはカトリック教会によって、オーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドなどの守護聖人とされている。


偉人のプロフィール

〔ザビエル〕のプロフィール。

〔ザビエル〕

ザビエルの肖像・写真 
(出典:wikipedia)

プロフィール
通称 ザビエル
本名 フランシスコ・デ・ザビエル
(スペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta)

別名

 かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」「サヴェーリョ」などとも呼ばれた。

 ザビエルにゆかりのある山口県では「サビエル」とも呼ばれる。

称号 カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日
時代 16世紀
生誕 1506年4月7日・スペイン:ハビエル
死没 1552年12月3日・中華人民共和国:台山市 上川島
国籍 ナバラ王国(ナバーラ王国)(現:スペイン・フランスあたり):バスク人
言語 バスク語とナバラ語(スペイン語)
居住地
学歴 コレージュ・サント=バルブ (1525年 - 1530年)
職業 カトリック教会の司祭、宣教師
分野 キリスト教
所属 〔崇敬する教派〕

 ・カトリック教会
 ・聖公会
 ・ルーテル教会

〔設立団体〕

 ・イエズス会の創設メンバーの1人
業績 〔業績〕

 ・イエズス会の創設メンバーの1人
 ・日本に初めてキリスト教を伝道
 ・インドなどの地域で布教

作品 〔著書〕

 『フランシスコ・ザビエルが書いた日本についての書簡』

名言 〔ザビエルの名言〕



サイト
その他