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〔世界の偉人〕

〔さ〕で始まる世界の偉人

サハロフ
(露: Андре?й Дми?триевич Са?харов)



 サハロフは、ソビエト連邦の理論物理学者・物理学博士であり、宇宙論や素粒子論において国際的な業績をあげた。ソ連における水素爆弾開発に携わり、「ソ連水爆の父」と呼ばれた。

 しかし、後に自らの良心に基づいて、反体制運動家・人権活動家として活動した。人権、市民的自由、ソ連の改革などを主張し、「ペレストロイカの父」とも呼ばれる。  サハロフは、1921年5月21日、ソビエト連邦のモスクワに生まれる。1938年モスクワ大学に入学、1942年に卒業する。




 第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた独ソ戦のために、トルクメン共和国(現:トルクメニスタン)のアシハバードに疎開する。

 一時期、ウリヤノフスクに移り、研究生活を送るが、1945年にはモスクワに戻り、ソ連科学アカデミー物理学研究所の理論部門で研究生活を送るようになる。

 終戦後には宇宙線を研究し、1947年物理学博士号を取得する。そして、1948年からイーゴリ・クルチャトフの下で原子爆弾開発に従事し、1949年8月29日にソ連初の原爆を完成する。次いで水爆開発を行い、1953年8月12日水爆開発に成功する。


 サハロフはこの功績により、32歳の若さにして、ソ連科学アカデミーの正会員となる。そして、社会主義労働英雄の称号を3回も得、「ソ連水爆の父」と称されるようになる。しかし、核実験による放射能汚染、特に大気汚染を目撃し、核実験の中止をソ連共産党第一書記のフルシチョフに進言する。1963年の部分的核実験禁止条約締結に貢献する。

 1960年代後半からは、民主化を求めて社会的発言を行うようになり、1968年「進歩、平和共存、知的自由に関する考察」を発表する。これが、西側で公刊されると、サハロフは軍事機密研究から外され、科学アカデミー物理学研究所に配置転換される。

 やがて人権擁護活動に重きをおくようになり、1970年にはモスクワ人権委員会の創設者の一人に名を連ねる。この活動が評価され、1975年にはノーベル平和賞を受賞する。これに対し、ソ連国内では批判が巻き起こり、特に政府が批判キャンペーンを行った。

 1980年、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議したことで、当局に逮捕され、一切の栄誉を剥奪され、ゴーリキー市に流刑される。時が経ち、1986年、ゴルバチョフによって流刑が解除され、モスクワに戻る。以後、ペレストロイカの進展を支持し、ソ連人民代議員大会の創設により、1989年科学アカデミーから人民代議員に選出される。アフガニスタン侵攻を批判するなど、良心と勇気に基づく発言は人々の尊敬を集め、「ペレストロイカの父」と称された。

 1989年、読売新聞社主催の「第2回ノーベル賞受賞者日本フォーラム」に出席するため来日する。その2か月後の1989年12月14日、心臓麻痺のため急死した。没年満68歳であった。


偉人のプロフィール

〔サハロフ〕のプロフィール。

〔サハロフ〕

サハロフの肖像・写真 
(出典:wikipedia)

プロフィール
通称 サハロフ
本名 アンドレイ・ドミートリエヴィチ・サハロフ
(露: Андре?й Дми?триевич Са?харов)
別名

受賞歴
時代
生誕 1921年5月21日・ロシア社会主義連邦ソビエト共和国:モスクワ
死没 1989年12月14日(満68歳没)・ソビエト連邦:モスクワ

墓所:モスクワ市内のボストリャコフスコエ墓地

国籍 ソビエト連邦
言語 ロシア語
居住地
学歴 モスクワ大学
職業 ソビエト連邦の理論物理学者・物理学博士
分野 〔研究分野〕:原子核物理学
所属
業績 〔主な業績〕:第3のアイディア
作品
受賞歴 〔主な受賞歴〕

 ・社会主義労働英雄(1953年・1955年・1962年)
 ・スターリン賞(1953年)
 ・レーニン賞(1956年)
 ・ノーベル平和賞(1975年)

名言 〔サハロフの名言〕



サイト
その他

〔サハロフ賞〕

 ・1988年、欧州議会はサハロフを記念し「サハロフ賞」を創設した。言論及び思想の自由の擁護に尽くした人々や組織に賞を贈っている。