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〔世界の偉人〕

〔け〕で始まる世界の偉人

玄奘三蔵
(げんじょうさんぞう)
(三蔵法師)
(さんぞうほうし)



 玄奘三蔵は、唐代の中国の訳経僧である。日本では、中国の伝奇小説である『西遊記』の登場人物として知られる。三蔵法師とか単に三蔵などとも呼ばれるが、三蔵とは、仏教の経蔵、律蔵、論蔵に精通した僧侶のことである。

 正しくは、三蔵法師というのは一般名詞であり、固有名詞ではないが、通常は西遊記の三蔵法師である玄奘三蔵を指すことが多い。

 彼は、628年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究の末、645年に経典657部や仏像などを持って帰還し翻訳作業を行い、法相宗の開祖となる。インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、後に『西遊記』の基となった。



 後の玄奘三蔵となる彼は、隋朝の仁寿2年(602年)、洛陽にほど近い現在の河南省で、後漢の陳寔を祖にもつ陳留出身の士大夫の家柄に生まれた。10歳のとき父親が他界したのを機に、兄とともに浄土寺に学び、11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになる。13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んでいる。

 その後も、各地の寺に移りながら、『阿毘曇論』や『涅槃経』『摂大乗論』『阿毘曇論』『成実論』『倶舎論』の研究をすすめ、歴史や老荘思想への見識を深めたという。


 玄奘は、仏典の研究は原典に拠るべきと考え、仏跡の巡礼を志し、当時の唐王朝の国禁を犯して密出国し、河西回廊を経て、現在の新疆ウイグル自治区・トルファン地区に存在したオアシス都市国家、高昌に至っている。

 時の高昌王は、玄奘が熱心な仏教徒だったことから金銭面で支援したという。玄奘は、西域商人らに混じり、天山南路から天山北路へと渡るルートを渡り、中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。

 ナーランダ大学で戒賢に師事し、唯識を学んだり、各地の仏跡を巡拝し、学問を修める。密かに出国して以来、実に16年の歳月を経た後、西域南道を経て帰国の途につき、貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰った。

 帰国した唐は時代が変わり、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価し、玄奘が密出国のかどで罪を問われることはなかった。しかし、太宗は西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめるよう命じた。この命に対しての報告書が『大唐西域記』である。

 帰国後の玄奘は、その余生を持ち帰った膨大な経典の翻訳に捧げた。この翻訳作業は、弘福寺の翻経院や大慈恩寺において行われた。また、玄奘の進言を受けた次の皇帝・高宗は、652年、大慈恩寺に大雁塔を建立して、持ち帰った経典や仏像などを保存にあたった。

 玄奘は死の直前まで翻訳を続けたが、経典群の中で最重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に没している。玄奘自身は、持ち帰った経典全体の3分の1ほどしか翻訳を進めることが出来なかったが、それでも生前に完成させた経典の翻訳数は、76部1347巻に達した。


偉人のプロフィール

〔玄奘三蔵〕のプロフィール。

〔玄奘三蔵〕

玄奘三蔵の肖像・写真 
(出典:wikipedia)

プロフィール
通称 玄奘三蔵
本名 玄奘(げんじょう)
別名

〔尊称〕:三蔵・法師など
〔戒名〕:玄奘
〔俗名〕:陳いん
〔諡〕:大遍覚

称号 鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。

時代
生誕 602年・生地:?氏県
死没 664年3月7日
国籍 中国
言語 中国語・サンスクリット語
居住地 中国・インド
学歴
職業 唐代の中国の訳経僧
分野 ・インド仏典の中国への持ち帰り
・サンスクリット語の仏典の翻訳

所属 〔宗派〕:法相宗(宗祖)

 ・法相宗の実質的な創始者は玄奘の弟子の基であるが、『仏祖統紀』などは、玄奘とナーランダー留学時の師、戒賢までを含めた3人を法相宗の宗祖としている。

〔寺院〕:大慈恩寺

業績 〔西域への旅〕:密出国ながらインドへ向かい、多数のインド仏典を中国に持ち帰った。

〔仏典の翻訳〕:持ち帰ったサンスクリット語の仏典の翻訳に生涯を捧げた。

〔旅の記録〕:インドへの旅行の記録として、『大唐西域記』を残した。これが後の『西遊記』の基となった。

作品 〔著作〕

 『大唐西域記』
 ほかに、仏教典多数

名言 〔玄奘三蔵(三蔵法師)の名言〕



サイト
その他

〔玄奘の遺骨〕

 1942年(昭和17年)、南京市の中華門外にある雨花台で、旧日本軍が玄奘の墓を発見した。縦59cm横78cm高さ57cmの石槨の中に、縦51cm横51cm高さ30cmの石棺が納められていた。

 石棺内部には、北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武19年)の葬誌が彫られていて、石棺内に納められていたのは、頭骨、その他多数の副葬品であった。

 その後、玄奘の霊骨は、日中で分骨することとなった。中国側は、北平の法源寺内・大遍覚堂に安置されたほか、南京博物院や各地に分骨された。

 日本では、現さいたま市岩槻区の慈恩寺に奉安された。後に奈良市の薬師寺「玄奘三蔵院」に一部分骨された。

慈恩寺玄奘塔(さいたま市岩槻区) 
慈恩寺玄奘塔(さいたま市岩槻区)(出典:wikipedia)