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アマゾン〔世界の偉人〕〔け〕で始まる世界の偉人玄奘三蔵 |
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玄奘は、仏典の研究は原典に拠るべきと考え、仏跡の巡礼を志し、当時の唐王朝の国禁を犯して密出国し、河西回廊を経て、現在の新疆ウイグル自治区・トルファン地区に存在したオアシス都市国家、高昌に至っている。 時の高昌王は、玄奘が熱心な仏教徒だったことから金銭面で支援した。 玄奘は、西域商人らに混じり、天山南路から天山北路へと渡るルートを渡り、中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。 ナーランダ大学で戒賢に師事し、唯識を学んだり、各地の仏跡を巡拝し、学問を修める。 密かに出国して以来、実に16年の歳月を経た後、西域南道を経て帰国の途につき、貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰った。 帰国した唐は時代が変わり、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価し、玄奘が密出国のかどで罪を問われることはなかった。 しかし、太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめるよう命じた。この命に対しての報告書が、『大唐西域記』である。 帰国後の玄奘は、その余生を持ち帰った膨大な経典の翻訳に捧げた。この翻訳作業は、弘福寺の翻経院や大慈恩寺において行われた。また、玄奘の進言を受けた次の皇帝・高宗は、652年、大慈恩寺に大雁塔を建立して、持ち帰った経典や仏像などを保存にあたった。 玄奘は死の直前まで翻訳を続けたが、経典群の中で最重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に没している。 玄奘自身は、持ち帰った経典全体の3分の1ほどしか翻訳を進めることが出来なかったが、それでも生前に完成させた経典の翻訳数は、76部1347巻に達した。 |