しかし、実はこれより1か月ほど早い、1758年12月25日に、ヨハン・ゲオルク・パリッチュが発見していたことが判明する。パリッチュがヨーロッパ中で一躍有名人となるのと対照的に、メシエは一種の誹謗中傷的にその名を知られることとなる。
メシエは、いわれなき一種の屈辱を跳ね飛ばさんとばかり、彗星探索に一層没頭するようになるのである。彗星発見者として徐々に有名になり、1760年にドリルが退官すると、その後任として天文官に就任する。1764年にはロンドン王立協会の外国人会員となる。
メシエは、彗星探索において、彗星と見分けにくい多くの天体が存在することに気付き、閉口して、1764年初め頃から、このような天体の分類リスト作りを始める。
この年の年末には、それまで知られていた天体に、自ら発見した18個の天体を加えた40個の天体リストを作成する。これらの天体には〔M1〕~〔M40〕の番号が振られる。40番目の天体〔M40〕は、実は二重星であった。
1765年に発見した〔おおいぬ座〕に〔M41〕の番号を付けたが、何とか45個にしようと、プレセペ、プレアデスなどの有名な天体を追加した。
1769年には、おひつじ座のはずれに大彗星 (C/1769P1) を発見、続いて、翌1770年にも彗星(レクセル彗星 (D/1770 L1)[2])を発見する。これにより、プロイセン科学アカデミーの外国人会員の資格を取得することとなる。
かくして、メシエが生涯に発見した彗星の個数は13個になった。そのうちの一つは助手のピエール・メシャンとの共同発見である。彼の業績に対し、ルイ15世はメシエを「彗星の狩人」と呼んだし、ナポレオンはメシエに勲章を与えている。
1774年以降、メシエは『メシエ天体カタログ』の第1巻から第3巻までを発表した。それらには〔M1〕~〔M103〕の識別番号が振られている。現在、このカタログに掲載された天体は、〔メシエ天体〕と呼ばれ親しまれている。
メシエが使用した望遠鏡は口径がわずか、5~7cm程度の小型だったため、その後の高性能望遠鏡での観測により、メシエ天体には、星雲以外に、星団・銀河も含まれていることが判明している。
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