この研究所でニールス・ボーアに出会い理論物理学分野に没頭するようになる。そして理論物理学分野が発展していたゲッティンゲン大学へと移籍し、そこで博士号を取得した。ここでの業績として、マックス・ボルンとの共同研究で「ボルン-オッペンハイマー近似」を発表した。
1929年以降、カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学を教え、1936年には教授となる。
1930年代末ブラックホールなどの宇宙物理学分野の先端的研究を行っていた。おりしも、その時代、第二次世界大戦がはじまり、1942年に原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始される。1943年、オッペンハイマーはロスアラモス国立研究所の初代所長となり、この計画を主導することとなる。
1945年7月16日、人類最初の核実験である〔トリニティ実験〕がアメリカのニューメキシコ州ソコロで行われ成功する。
そして、8月6日の広島原爆投下、8月9日の長崎原爆投下への悲劇へと続くのである。彼は、超絶な兵器を見せて世界の戦争をなくそうと考えていたが、人類はそれを通常兵器と同様に使ってしまったことに絶望したという。
1947年にはアインシュタインを擁するプリンストン高等研究所長に任命されたが、核兵器への反対を表明するようになる。ここでは、後に〔水爆の父〕と呼ばれるようになる、エドワード・テラーと対立することとなった。
戦後に進行したソ連との冷戦を背景に、アメリカのジョセフ・マッカーシーがいわゆる赤狩りを始めた。妻や実弟など親近者、そしてオッペンハイマーの元恋人らがアメリカ共産党員だった。
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(広島原爆投下) (出典:wikipedia)
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(トリニティ実験) (出典:wikipedia)
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自身も共産党集会に参加したことがあって、オッペンハイマーは機密安全保持疑惑により休職処分に処せられ、生涯にわたってFBIの監視下におかれた。
戦後、悲惨な原子爆弾開発の罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになる。彼は原爆開発を真実後悔していたのである。
1965年、オッペンハイマーは喉頭がんになり、手術や放射線療法、化学療法を受けたが、その効はなく、1967年ニュージャージー州プリンストンの自宅で没した。62歳だった。
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