1785年に砲兵士官として任官する。1789年にはフランス革命が勃発し、フランス国内の政情は不安定となった。ナポレオンは、コルシカ民族主義者であり、革命には無関心だった。ナポレオンと家族は、いろいろないきさつでマルセイユに移住する。
1793年、原隊に復帰し、貴族士官の亡命という恩恵により大尉に昇進、トゥーロン攻囲戦に参加する。この時代、反革命軍を支援する第一次対仏大同盟諸国の図式があった。前任者の負傷により、砲兵司令官となり、少佐に昇格する。トゥーロンはフランスの地中海艦隊の母港で、反革命側がイギリス・スペイン艦隊の支援を受け完璧な防御を敷いていた。
ナポレオンは、港を見下ろす二つの高地を奪取し、そこから敵艦隊を大砲で攻撃する作戦を進言する。豪雨の中で実行されたこの作戦により、外国艦隊を撃破し反革命軍を降伏させる。24歳のナポレオンは足を負傷したが、この功績により、一挙に旅団陸将に昇進、一躍フランス軍を代表する若き英雄となったが、1794年にはイタリア戦線での方針対立などから逮捕されたりして、降格処分をうけ、予備役になってしまう。
1795年にはパリで王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起こった。この時、トゥーロン攻囲戦時に派遣議員であった、国民公会軍司令官ポール・バラスが、知り合いのナポレオンを副官として任用する。
ナポレオンは、首都市街地で市民に対して大砲を放つ大胆な作戦をとり反乱鎮圧に成功する。この功績により、ナポレオンは師団陸将に昇進する。そして、国内軍副司令官、更に国内軍司令官となり、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとる。
1796年、総裁政府の総裁となっていたバラスにより、ナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢される。
フランス革命へのオーストリアの干渉に対して、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面からオーストリアを包囲攻略する作戦を実行することになり、ナポレオンは、イタリア方面作戦を任される。
ドイツ側からの攻略が頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝し、1797年4月にはウィーンへと迫り、ナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入り、10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を締結する。
これにより、第一次対仏大同盟が崩壊し、フランスはイタリア北部の広大な領土を手中におさめ、多くの衛星国家を建設、膨大な戦利品を獲得する。パリへと帰還したナポレオンは英雄として熱狂的な歓迎をもって迎えられる。
陸側からのオーストリア攻略成功とは裏腹に、強力な海軍を有し制海権を有するイギリスに対しては困難な状況にあった。ナポレオンは、イギリスの重要な植民地であるインドとの連携を絶つべく、英印交易の中継地点エジプトを攻略することを総裁政府に進言する。
1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸、ピラミッドの戦いに勝利してカイロに入城するが、その直後、ネルソン率いるイギリス艦隊が、アブキール湾海戦においてフランス艦隊を撃破してしまい、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまう。
12月には、再び第二次対仏大同盟が結成されフランス本国も危機に陥る。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還されると、民衆による総裁政府糾弾の声が高まってきた。この事態を知り、ナポレオンは、自軍はエジプトに残し、フランス本国に舞い戻った。
そして、ナポレオンは、ブルジョワジーの意向をうけた者らと、ブリュメールのクーデターを起こし統領政府を樹立、自ら第一統領となって実質的に独裁権を握ることとなる。
第一統領となって独裁権を確保したとはいえ、第二次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を直ちに打破しなければならなかった。先ずはイタリアの再確保が急務だが、ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠越えで北イタリアに入る奇襲策をとった。
いくつかの戦闘によって、苦戦しながらもオーストリア軍に劇的に勝利した。1801年2月はオーストリアは和約に応じて、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約で第二次対仏大同盟が崩壊した。残るイギリスとの戦いも、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。
ナポレオンは、革命期に打撃を受けた工業生産力の回復や産業全般の振興を図った。1800年にはフランス銀行を設立、通貨と経済を安定化させた。1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。
この法は、画期的な民法典であり、万人の法の前の平等、国家の世俗性、信教の自由、経済活動の自由等の価値観を取り入れたものであった。公共教育法も制定して教育改革にも尽力した。
ナポレオンが統領政府の第一統領時代が始まると、彼を狙った暗殺未遂事件が頻発した。1804年3月にフランス王族アンギャン公ルイ・アントワーヌを処刑すると、王を戴く欧州諸国の反ナポレオン感情を大きく刺激した。それとは逆に、ナポレオンはますます独裁色を強め帝政の道へと進んだ。
1802年8月2日には、1791年憲法を改定してナポレオン自身を終身統領と規定し、自らへの権力の集中を図った。
植民地のサン=ドマングでは、黒人の将軍トゥーサン・ルーヴェルチュールがイギリス軍、スペイン軍を破り、サン=ドマングを回復した。1801年7月7日に自身を終身総督とする自治憲法を制定していた。
ナポレオンはサン=ドマングを再征服を目指し、トゥーサンを捕え獄死させ、奴隷制を復活させた。しかし、1803年11月18日、サン=ドマングの黒人たちはヴェルティエールでフランス軍を破り、ここにフランス領サン=ドマングはハイチ共和国として独立した。これはナポレオン軍最初の大敗北となった。
1804年5月、国会議決と国民投票により、世襲制により、ナポレオンは子々孫々にわたる皇帝の地位に就くことになり、1804年12月2日に即位式を行った。「フランス人民の皇帝」に就いたのである。
1805年、ナポレオンはイギリス攻略を目指し、ドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させた。これに対して、イギリスはオーストリア・ロシアなどと共に第三次対仏大同盟を結成する。
1805年10月、ナポレオン軍は、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて破れ、イギリス上陸作戦は失敗に終わる。
海戦で敗れたフランス軍だったが、陸上ではウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリア軍は救援にきたロシア軍と合流し、プラツェン高地でフランス軍と激突する。ナポレオン軍が完勝し、ここに第三次対仏大同盟は崩壊した。
1806年10月にはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟が結成された。これに対して、ナポレオンは、10月のイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領する。
こうして、ナポレオンは、ロシアやイギリス・スウェーデン・オスマン帝国以外のヨーロッパ中央部を手中におさめた。ここに長い歴史を背負った神聖ローマ皇国は名実ともに消滅した。
更にナポレオンは、1806年11月、大陸封鎖令を出して、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止した。
ナポレオンは、強敵ロシアとの戦いに挑み、1807年2月アイラウの戦い、6月のハイルスベルクの戦いでかろうじて勝利したものの、猛雪により苦戦し多くの兵士を失った。
しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝し、ロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみで講和、プロイセンには49%の領土を割譲させる。ポーランドにワルシャワ公国、ドイツのヴェストファーレン地方を含む地域にヴェストファーレン王国を誕生させ、フランスの傀儡国家とした。
こうして、ナポレオンは、イギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧した。イタリア・ドイツ西南部諸国・ポーランドはフランス帝国の属国になり、ドイツ系の残る二大国、オーストリア・プロイセンも従属的な同盟国となった。
1808年5月にナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入したが、これが元でスペイン独立戦争が起こる。7月にはスペイン軍・ゲリラ連合軍の前にフランス軍が降伏し、皇帝としてヨーロッパ全土を支配したナポレオンの陸上での最初の敗北となった。
1809年、オーストリアはイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。いくつかの戦いの末、ナポレオン軍が辛勝し、第五次対仏大同盟は消滅する。
大陸封鎖令によりイギリスからの物産が入手できなくなった欧州諸国は経済的に困窮した。重農主義のフランスもその代わりはできずフランス産業も苦境に陥った。
1810年、ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開すると、ナポレオンは封鎖令の継続を求めるもロシアはこれを拒否した。1812年、ナポレオンは60万の大軍によりロシアに侵攻する。これがナポレオンのロシア遠征であり、ロシアでは祖国戦争と呼ばれた。
ロシア軍の司令官を務めたは老将、ミハイル・クトゥーゾフは、ロシア軍が戦えばナポレオンに負けることを知っていて、そのために、何としても会戦を避け、ひたすら後退し、フランス軍の進路にある物資や食糧はすべて焼き払う焦土戦術に徹した。
荒涼としたロシア原野を進むフランス軍は食料の確保に苦しみ、モスクワ前面のボロジノの戦いでは、兵力は1/3以下にまで減っていた。ようやくポロジノ軍を破り、モスクワに入城するも、市内に潜伏したロシア兵が焦土作戦を実行し、モスクワは3日間燃え続け焼け野原と化した。
物資の入手も戦闘での勝利できなかったナポレオンは、ここで遠征の失敗を悟り撤退を始めると、ロシアの老将クトゥーゾフは、コサック騎兵を繰り出してフランス軍を追撃させた。
冬将軍とコサック騎兵に追撃され、ロシア国境まで生還したフランス兵は全軍の1%以下の、わずか5千人であった。
パリではクーデター事件が発生し失敗に終わるが、これを知ったナポレオンは、撤退作戦を部下に任せ、一足先に脱出しフランスに帰還する。
ナポレオンの大敗を知った各国は、一斉に反ナポレオンに向かい、プロイセンが各国に呼びかけ、第六次対仏大同盟を結成する。
それでも、1813年、ナポレオン軍はプロイセン・ロシア等の同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦いに勝って休戦に持ち込んだ。
講和に失敗すると、幾多の決戦の後、ナポレオン軍は徐々に敗退し、フランスへと逃げ帰った。
1814年になると、フランスの北東にはオーストリア・プロイセン軍25万、北西にはスウェーデン軍16万、南方ではイギリス軍10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方のナポレオン軍はわずか7万の兵力しかなかった。
3月31日、フランス帝国の首都パリが陥落した。ナポレオンは外交による退位と終戦を目指したが、無条件退位させられ、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放される。
紆余曲折の末、ブルボン家が後継に選ばれ王政復古した。
ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれ、欧州の行方が話されたが、各国の利害がからみ会議は遅々として進まなかった。また、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。
1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出、パリに戻り復位し、自由主義的な新憲法を発布する。連合国との講和が拒否されると、戦争へと進むのだった。緒戦では勝利したが、イギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗して、ナポレオンの復位は幕を閉じる。世にいう百日天下である。
ナポレオンは、イギリス軍艦に投降する。イギリス政府は、ナポレオンを南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉する。ナポレオンは少数の随行者と島中央のロングウッドの屋敷で厳しい監視下のもとに暮らした。
そんな中でも、ナポレオンは、随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残している。彼の人生観・歴史観・人生観を網羅しているという。
ナポレオンは、1821年に死去したが、彼の遺体は遺言により解剖され胃に潰瘍と癌が見つかったとされ、公式には胃がんと発表された。
その遺骸は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。
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