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〔ナポレオン〕

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なにぬねの
 
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ナイチンゲール
ナポレオン

〔世界の偉人〕

ナポレオン

 

 ナポレオン革命期フランスの軍人であり政治家である。

 ナポレオンは、フランス革命期の軍人・政治家で、革命後の混乱を収拾して、軍事独裁政権を樹立した。

ナポレオンの肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)

 ナポレオン1世としてフランス第一帝政の皇帝にも即位した。

 いわゆるナポレオン戦争において、幾多の戦勝を重ね、イギリスとオスマン帝国の領土を除くヨーロッパ大陸の大半を制覇したが、最終的には敗北し失脚した。



 ナポレオンの生涯を詳細に記述することは、スマホ版では極めて困難なため、これ以降は超概略だけを記述する。詳細が知りたい場合は、PC版に移動してご覧ください。

 ナポレオンは、コルシカ島で生まれ、やがて、家族でフランスに移住する。1779年にはブリエンヌ陸軍幼年学校、1784年にはパリの陸軍士官学校に入学し、砲兵科を専攻した。

 この大砲を用いた戦術は、後の命運に深く影響することになる。

 1785年には、砲兵士官として任官する。1793年には大尉に昇進、トゥーロン攻囲戦に参加する。砲兵司令官となり少佐に昇格する。

 この時代、反革命軍を支援する第一次対仏大同盟諸国の図式があった。ナポレオンは、港を見下ろす二つの高地を奪取し、そこから敵艦隊を大砲で攻撃する作戦を展開、外国艦隊を撃破し反革命軍を降伏させる。この功績で一挙に旅団陸将に昇進する。

 しかし、1794年にはイタリア戦線での方針対立などで降格処分をうけ予備役になってしまう。

 1795年にパリで王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起こった際、トゥーロン攻囲戦時に派遣議員であった、国民公会軍司令官ポール・バラスに抜擢され、副官となり、反乱鎮圧に成功、師団陸将、国内軍副司令官、更に国内軍司令官となる。

 1796年、フランス革命へのオーストリアの干渉に対して、ナポレオンはイタリア方面作戦を任され連戦連勝し、パリに英雄として帰還する。

 強力な海軍力で制海権を有するイギリスに対抗するため、英印交易の中継地点エジプトを攻略するためにエジプトに侵攻する。ピラミッドの戦いで勝利するが、ネルソンのイギリス艦隊がフランス艦隊を撃破しナポレオン軍はエジプトに孤立してしまう。

 1799年、ナポレオンは自軍をエジプトに残しフランス本国に帰還、ブリュメールのクーデターを起こし統領政府を樹立、自ら第一統領となって独裁権を握る。

 この後、第二次対仏大同盟ができ、フランスを包囲するが、ナポレオンは勝利し、オーストリアはライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。これにより第二次対仏大同盟は崩壊する。

 1791年憲法を改定してナポレオン自身を終身統領と規定し、自らへの権力の集中を図った。ナポレオンは子々孫々にわたる皇帝の地位に就くことになり、1804年12月2日に即位し「フランス人民の皇帝」に就く。

 その後も、周辺諸国による第三次、第四次対仏大同盟が結成され、フランスに対抗する。1806年11月、大陸封鎖令を出して、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止した。

 1809年、オーストリアはイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。いくつかの戦いの末、ナポレオン軍が辛勝し、第五次対仏大同盟は消滅する。

 1810年、ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開すると、ナポレオンは封鎖令の継続を求めるもロシアはこれを拒否した。

 1812年、ナポレオンは60万の大軍によりロシアに侵攻する。これがナポレオンのロシア遠征であり、ロシアでは祖国戦争と呼ばれた。

 ロシア軍司令官の老将、ミハイル・クトゥーゾフは、戦えばロシア軍は負けることを知っていて、会戦を避け、ひたすら後退、フランス軍の進路にある物資や食糧はすべて焼き払う焦土戦術を展開した。

 荒涼としたロシア原野を進むフランス軍は食料の確保に苦しみ、モスクワ前面のボロジノの戦いでようやく勝利したときには、兵力は三分の一に減っていた。モスクワに入城すると、ロシア兵による焦土作戦により、モスクワは3日間燃え続け焼け野原と化した。

 ナポレオンは、失敗を悟り撤退を始めたが、ロシア国境まで生還したフランス兵は出発時のわずか1%にも満たなかった。

 ナポレオンの大敗を知ると、プロイセンが各国に呼びかけ、第六次対仏大同盟を結成された。

 1814年、フランス北東にはオーストリア・プロイセン軍25万、北西にはスウェーデン軍16万、南方ではイギリス軍10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方のナポレオン軍はわずか7万の兵力しかなかった。

 3月31日、フランス帝国の首都パリが陥落、ナポレオンは無条件退位させられ、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放された。

 紆余曲折の末、ブルボン家が後継に選ばれ王政復古したが、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。

 1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出、パリに戻り復位し、自由主義的な新憲法を発布する。連合国との講和が拒否されると、戦争へと進むのだった。イギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗して、ナポレオンの復位は幕を閉じる。世にいう百日天下である。

 イギリス政府は、ナポレオンを南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉する。ナポレオンは、随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残している。彼の人生観・歴史観・人生観を網羅しているという。

 ナポレオンは、1821年に死去したが、彼の遺体は遺言により解剖され胃に潰瘍と癌が見つかったとされ、公式には胃がんと発表された。

 その遺骸は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。


偉人のプロフィール

プロフィール
通称 ナポレオン
本名

ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)

別名

〔別号〕

・イタリア国王
・アンドラ大公

称号

ナポレオン1世として、フランス第一帝政の皇帝

〔在位〕

・1804年5月18日 - 1814年4月11日
・1815年3月20日 - 1815年6月22日

〔戴冠〕

・1804年12月2日、パリ・ノートルダム大聖堂

時代

〔王朝〕:ボナパルト朝

生誕・生誕地

1769年8月15日・フランス王国:コルシカ島アジャクシオ

死没

〔死没〕:1821年5月5日(満51歳没)・イギリス領セントヘレナ島ロングウッド

〔埋葬地〕:1952年2月15日・フランス、パリ、オテル・デ・ザンヴァリッド

オテル・デ・ザンヴァリッド地下にあるナポレオンの墓 

オテル・デ・ザンヴァリッド地下にあるナポレオンの墓
(出典:ウイキペディア)
国籍

フランス

言語

フランス語

居住地

フランス

学歴

職業

軍人・政治家

分野

所属

業績

作品

受賞歴

名言

サイト

その他


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