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〔世界の偉人〕

スハルト大統領

 

 スハルト大統領は、インドネシアの軍人・政治家である。第2代大統領に30年以上も居座り、開発独裁政権として同国の工業化を推し進めた功績がある。

 しかし、アジア通貨危機後に発生した政治不安・社会不安を収拾することに失敗し、大統領職辞任に追い込まれた。

スハルト大統領の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)

 大統領在任期間中に、自身の一族への不正な利益許与などを行ったことで、大統領辞職後に法的責任を追及されたが、高齢のうえ健康問題も抱えていたことから刑事訴追は免れた。



 スハルトは、1921年6月8日、オランダ領東インドの植民地時代のインドネシア中部ジャワ州にある小村で生まれた。

 幼少時、父母が離婚したことなどから、国内各地を転々として成長したが、現地語であるジャワ語の小学校を出て、18歳の時、中学校を卒業した。

 蘭印軍(オランダ領東インド軍)に入隊し軍曹に昇進するが、太平洋戦争開戦後には蘭印軍が日本軍に降伏したため、失職している。

 1943年、日本軍政期に組織されたペタと呼ばれる郷土防衛義勇軍に採用され、すぐに小隊長、中隊長へと昇進する。

 日本が無条件降伏した二日後の1945年8月17日には、スカルノがインドネシア独立を宣言し、翌日の8月18日には第1代大統領に就任する。そして、8月19日にはペタは解散する。敗退した日本に代わって、植民地支配の復活を狙ったオランダとの間で独立戦争が始まる。

 オランダへの抵抗組織として、正規軍や非正規軍が多数発足したが、スハルトはその年9月に組織された正規軍に加わり、ペタ時代の実績を背景に副大隊長となる。10月には共和国軍が正式に発足して大隊長に任命される。

 武力闘争と外交交渉によって、1949年12月にインドネシアは独立を達成し、インドネシア連邦共和国が成立する。さらに連邦構成国が合流して、最終的に1950年8月15日にインドネシア共和国が誕生する。1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたるインドネシア独立戦争では、80万人が犠牲となった。

 インドネシア独立後にもオランダによる支配が継続していた、西イリアン(ニューギニア島)の解放作戦の活躍などもあり、1963年にスハルトは陸軍戦略予備軍の司令官に就任する。

 時のスカルノ大統領は、1950年代の議会制民主主義体制を破棄し、大統領に強大な権力を集中させる1945年憲法を復活させ、「指導される民主主義」を宣言する。

 スカルノ大統領は、インドネシア共産党を支持基盤として親共路線を強め、国軍内にも親共派が勢力を増しつつある中、スハルトら国軍主流派は危機感を抱くようになる。

 こんな中、1965年9月30日には大統領親衛隊長であるウントゥン中佐が、左派系軍人を率いて、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するクーデターを引き起こす。世にいう〔9月30日事件〕である。

 スカルノ大統領から事態の収拾を命じられた、スハルトは速やかにこれを鎮圧し、同年10月16日には、陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任する。

 スハルトは、共産主義者一掃キャンペーンと称して、この事件に関わった共産党の指導者をはじめ、一般党員、共産党シンパの一般住民の大量虐殺を断行して、共産党組織を壊滅させる。これは20世紀最大の虐殺と呼ばれる。

 その後、スカルノ大統領はそれまでの親共路線の責任を問われ苦境にたち、政権を維持できない状況となる。結局、1967年3月11日には、スハルトにより、全ての権限をスハルトに与えるという〔3月11日命令書〕にサインさせられ、その実権をスハルトに奪い取られる。

 スハルトは、1967年3月に大統領代行となり、翌年1968年3月には第2代大統領に就任する。スハルト大統領は、親米・親マレーシア・反中華人民共和国、反ソビエト連邦路線を打ち出し、インドネシアを国連に復帰させる。

 1967年には、東南アジア諸国連合(ASEAN)を創設し、同事務局をジャカルタに誘致して、近隣諸国との関係強化にも努める。

 1974年4月、新規に誕生したポルトガル左派政権による海外領土放棄が宣言されると、ポルトガル領であった東ティモールは武力対立が生じて内戦状態に陥いる。東ティモール独立革命戦線が全土を制圧し、1975年11月28日に独立宣言を発表するが、スハルト政権はこれに武力介入し、東ティモールをインドネシアに併合してしまう。

 スハルトは、自らの出身母体である国軍と職能集団のゴルカルを支持基盤とし、中央や地方の行政機関の要職にはすべて自分の配下を任命し、選挙には強制的な介入を行い、ゴルカル圧勝劇を展開した。更に、1990年ごろからはイスラーム勢力にも支持基盤を拡げた

 国内での民主化活動家への弾圧や拉致、拷問、体制に批判的なマスコミなどへの人権侵害などにより、政権基盤を維持しつつ、開発独裁政権として経済発展を実現させる。産油国としての強さを活かし、豊富な労働力を背景に急速に工業化を進める。しかし、海外からはこのような強権的な手法が批判されるようになる。

 1997年、東南アジア地域の通貨危機が発生すると、インドネシアも通貨ルピアの大幅切り下げなどで住民の生活は大打撃を受ける。スハルト政権はこの事態を打開できず、約30年継続してきた長期政権もきしみ始める。

 1998年3月11日、スハルトは大統領に7選されたが、頂点に達した国民の不満、首都ジャカルタをはじめ、全国各地での大規模なデモが発生する中、5月21日、スハルトは大統領辞任する。

 スハルト自身は、訴追されるも高齢と病気を理由に裁判は停止された。しかし、2007年7月に最高検は、総額14億ドル(約1500億円)の不正蓄財の返還と損害賠償を求める民事訴訟を起こし、現在も決着していない。

 スハルトは、1999年7月に脳梗塞で倒れ、2008年1月4日に体調を崩し、1月27日、多臓器不全により死去した。没年満86歳であった。


偉人のプロフィール

プロフィール
通称 スハルト大統領
本名

スハルト(Soeharto, Haji Muhammad Soeharto)

別名

称号

時代

20世紀後半

生誕・生誕地

1921年6月8日・オランダ領東インド:中部ジャワ州、ジョグジャカルタ近郊、ゴデアン村

死没

2008年1月27日(満86歳没)・インドネシア:ジャカルタ

国籍

インドネシア

言語

インドネシア語

居住地

インドネシア

学歴

職業

インドネシアの軍人・政治家

分野

第2代大統領・開発独裁政権

所属

〔政党〕

・ゴルカル

業績

作品

受賞歴

名言

サイト

その他


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