一番下の妹、アンが生まれた1820年に、一家はハワースに移住し、現在はブロンテ協会本部となっている牧師館で暮らすようになります。しかし、翌1821年には母親が胃がんと結核を患い33歳の若さで他界してしまい、姉のエリザベスと兄のブランウェルとが一家の母親代わりとなり暮らします。
1824年、三人の姉たちマリアとエリザベス、シャーロットがランカシャーのカウアン・ブリッジ校に入学し、エミリーも入学しました。この学校の衛生環境が非常に悪く、翌年にはマリアとエリザベスとが肺結核となり急死してしまいます。このため、シャーロットとエミリーは緊急に牧師館に戻ります。
その後、シャーロットが私塾で牧師に採用され、エミリーもそこの生徒となりますが、3か月後には、エミリーはハワースの牧師館に帰り、代わりにアンが生徒となります。
エミリーは牧師館に帰ると詩を書くようになり、これはやがてアンとの共同劇『ゴンダル年代記』のもととなります。
エミリーは、1836年にローヒルという場所で牧師となりますが、半年でやめます。1842年には、シャーロットと二人でベルギーブリュッセルにあるエジェ寄宿学校へ留学しますが、半年後にはエミリーだけは帰国します。
その後、シャーロットが、エミリーとアンの詩の原稿を見つけ、これを1846年に自費出版しますが、売れませんでした。本の題名は『カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集』でしたが、当時は女流作家は流行らない時代だったため、エミリーはペンネームに男性名を使っていました。
この失敗にめげることなく、シャーロットはエミリーに小説を書くようにすすめ、エミリーは姉の説得に従って『嵐が丘』を書き上げました。
三人姉妹は、それぞれの小説を出版社に送りますが、姉の第一作は受理されませんでした。しかし、出版社はシャーロットに第二作目を執筆するように依頼し、それも受理されて、結局1847年にエミリーの『嵐が丘』とアンの『アグネス・グレー』そして、姉シャーロットの『ジェーン・エア』とが出版されます。
シャーロットの『ジェーン・エア』はよく売れて、彼女は第三作目『シャーリー』を執筆します。
この時点では残念ながら、エミリーの『嵐が丘』への評価は厳しいものでした。しかし、この『嵐が丘』はエミリーの没後になって高い評価を受けることになるのでした。
一方、エミリーとアンとは、大西洋上にある架空の島ゴンダル国での政争を描いた詩集『ゴンダル年代記』を著わしていますが、これは失われています。
尚、エミリーの兄弟姉妹は全員が早逝でした。兄パトリック・ブロンウェルは父親から過保護されて育ち、過度の飲酒癖のために1848年9月に急死しています。エミリーは、兄の葬儀で風邪をひき、それがもとで結核を患い、同年12月に死去してしまいました。わずか30歳の若さでした。
結局、エミリーの兄弟姉妹は6人全員が早逝してしまい、ブロンテ家の家系は断絶したのでした。そして、父親だけは、家族全員を見送った後に、84歳で他界しました。
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