『喜望峰を経由するインディアの発見のためにドン・ヴァスコ・ダ・ガマが1497年に行った航海の記録』
少し時代が経過してから、第一回航海に同行した修道士の日記や、当事者からの聞き取り証言などを元に数々のエピソードも含めた、詳細な記録が作成され、現在に伝わっています。
第二回航海については、帰国後に出版された著者不明の『カルクーン』や『ヴァスコ・ダ・ガマの第二回インド航海』などの記録、更に原典ではないもののイタリア語訳版の『東インドへの航海』が残されています。
その時代、西ヨーロッパ諸国の王室は等しく財政難を抱えていてその対応が急務となっていました。黄金や香料が豊富な東アジア地域(当時はインディアスと呼んだ)との直接貿易が望まれていました。
1493年、スペインのコロンブスが西回り航路でインディアス(現実にはアメリカ大陸)に到達したことに刺激されて、ポルトガルは、既に発見されていたアフリカ喜望峰経由でのインド航路発見のための艦隊を派遣することになったのでした。
ヴァスコ・ダ・ガマの航海は、目的をもって綿密に計画されたもので、コロンブスのように未知の領域へと挑んだものとは性質が異なりました。
4隻の新造船が建造され、随行船1隻とともに1497年7月8日、大勢の観衆が見守る中、艦隊はリスボンを出発します。第一回航海の始まりです。随行船はヴェルデ岬到着後帰還します。
艦隊は、11月22日には喜望峰を通過し、25日にはサン・プラス湾に寄港、貨物船を解体し、荷物を積み替え、3隻体制となって進みました。北上航海は最初順調だったものの、途中でモザンビークではイスラム影響下のスワヒリ文明と遭遇し、戦いとなります。それを乗り越えようやく1498年3月29日になって出発できました。
モンバサで柑橘類を入手するほか、インド人との接触に成功し、水先案内人を獲得します。ヴァスコはキリスト教徒と思い込んでいたが、現実にはヒンズー教徒のインド人でした。
航路情報を入手した艦隊は、マリンディからインド洋を渡り、インドへを目指します。5月17日にはデリ山を遠望、カレクト王国の都カレクト近郊に到着しました。5月28日には部下13人とともに上陸し、宮殿でカレクト国王と謁見し、親書を渡します。これにより目的のひとつが達成できたのでした。
この後も多くのいざこざの後に、ようやく出航してインドを後にします。
この後も、季節風に恵まれなかったり、カレクトからの追跡艦隊と戦ったり、幾多の困難を受けながら、艦隊は1499年1月2日にアフリカ東海岸にたどり着くと南下し、9日にマリンディに到着します。
この時点で、艦隊は3隻の維持が困難となり、1隻を焼却して2隻編成となります。2月1日にモザンビーク、3月20日に喜望峰を越えます。4月25日にはギニアの海岸に至り、これ以降、2隻は別行動をとります。
ニコラウ・コエリョのベリオが母国への報告をすべく、先にポルトガルへ向かい、7月10日にリスボンへ帰着しています。
ヴェルデ岬諸島サンティアゴ到着後、ヴァスコは艦の指揮を書記のジョアン・デ・サに委ね、帰国させます。ヴァスコ自身は、重体となった兄パウロの治療のためにカナリア諸島へ向かったのですが、パウロは死去します。ヴァスコがリスボンに帰着したのは9月ですが、日にちははっきりしません。出発時に147名だった艦隊乗員のうち無事帰国できたのは55名に過ぎませんでした。
ヴァスコはこの後も第二回航海、第三回航海をするが、どちらも困難を極めるものであった。第三回航海の途上、体調を壊し1524年12月25日コチンにて死去し、現地の聖フランシスコ修道院で葬儀された。
遺体はポルトガル・ヴィディゲイラに映され埋葬され、現在、ヴァスコはジェロニモス修道院に葬られている。
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