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〔お〕で始まる日本の偉人
王貞治 岡潔
岡倉天心 岡田紅陽
岡本太郎 沖田総司
仰木彬 小津安二郎
小尾信彌 小野小町
小野妹子 小渕恵三
織田信長 太田清蔵
大塩平八郎 大久保利通
大隈重信 大石内蔵助
尾崎行雄 尾崎放哉
尾崎豊

〔お〕で始まる日本の偉人

 〔お〕で始まる日本の偉人は結構多くいます。外国人の偉人も含め、次のような偉人がいます。

 ・王貞治
 ・岡本太郎
 ・小津安二郎
 ・小尾信彌
 ・小野小町
 ・織田信長

 これらの偉人たち以外でも、大久保利通や大隈重信、尾崎行雄などがいます。

 王貞治は、日本生まれ中華民国籍のプロ野球選手・監督です。数々のプロ野球記録を保持しています。中でもシーズン公式戦でのホームラン記録755本は前人未踏の記録です。1977年、国民栄誉賞を受賞しています。

 小津安二郎は、日本の映画監督・脚本家です。無性音声時代からトーキー時代へ、白黒からカラー映画時代へと活躍し、世界的にも知られる数多くの名作映画を残しています。代表作に『東京物語』や『晩春』『麦秋』『父ありき』『お茶漬の味』などがあります。


〔お〕で始まる偉人概要

王貞治

 王貞治は、日本生まれで中華民国籍の元プロ野球選手でありプロ野球の監督である。現役時代に一本足打法と呼ばれる独特の打法で、通算本塁打868本を記録した。同時代の長嶋茂雄とともにON砲として活躍し、巨人軍のV9に貢献した。現役引退後は巨人、ダイエー・ソフトバンクで監督を歴任した。

 1977年には初めて国民栄誉賞を受賞した人物として知られ、2010年には文化功労者として顕彰された。


岡潔

 岡潔は、日本の数学者で、奈良女子大学名誉教授、理学博士である。フランス留学時代に多変数複素函数論に出会い生涯を通じて研究し、発展途上であった多変数解析函数論の研究で大きな業績を残した。

 岡潔は、その時代の数学の三つの大問題を解決したことで知られている。中でも、ハルトークスの逆問題(レヴィの問題)の解決は有名である。彼の功績は、たった一人の数学者によるものとは信じられないほどのものであったという。


岡倉天心

 岡倉天心は、福井藩の武家の子として横浜に生まれた日本の思想家で文人である。現在の東京藝術大学の前身の一つである東京美術学校の設立に大きく貢献したほか、日本美術院を創設したことで知られる。


岡田紅陽

 岡田紅陽は、新潟県出身、早稲田大学卒の日本の写真家である。1923年の関東大震災の被害状況を東京府の嘱託として撮影したことで有名である。

 1925年に写真スタジオを設立し、主に山岳写真、風景写真を撮影、富士山の撮影をライフワークとしていた。1952年には日本写真協会を創設している。主な写真集には『関東大震大火記念写真帖』『東京震災写真帖』『写真の知識』『岡田紅陽の富士百影作品集』『富士山』『富士』などがある。


岡本太郎

 岡本太郎は、日本の芸術家であり、絵画、彫刻、陶芸、書道、写真、著述業に業績がある。昭和5~15年にフランスで学び、抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも交流がある。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画・立体作品を制作した。

 岡本太郎の代表作には、『傷ましき腕』『重工業』『明日の神話』などのほか、大阪万博で作成された巨大な『太陽の塔』などがある。


沖田総司

 幕末の武士・新撰組一番隊組長及び撃剣師範。文久3年、浪士組結成に参加して上洛し、近藤勇に従い新選組を結成し、一番隊組長となる。芹沢鴨暗殺や大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺など手がけたとされる。元治元年の池田屋事件でも近藤らと共に最初に池田屋に切り込んだが、奮戦中、喀血により戦線離脱したといわれる。体調悪化の後、病死した。享年は22歳、24歳、27歳と3説があるが定かでない。


仰木彬

 福岡県出身のプロ野球選手・プロ野球監督・野球解説者。西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍した野球選手で、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコーチ・監督を歴任。阪神大震災後に『がんばろうKOBE』の合言葉のもと快進撃を果たした。


小津安二郎

 小津安二郎は、日本の映画監督で脚本家である。〔小津調〕と呼ばれる独特の映像世界を創りだし、多くの作品を発表し、日本ばかりでなく世界からも高く評価されている。

 小津安二郎の代表作には『東京物語』『彼岸花』『お早よう』『秋日和』『秋刀魚の味』『晩春』『麦秋』『お茶漬けの味』『早春』『東京暮色』『出来ごころ』『母を恋はずや』『浮草物語』『東京の宿』『一人息子』『淑女は何を忘れたか』『戸田家の兄妹』『父ありき』『長屋紳士録』など多数がある。『東京物語』などでは女優の原節子と組んだ作品群の評価が高い。


小尾信彌

 小尾信彌は、日本の天文学者で天体物理学を専門としている。東大理学部天文学科卒業後、技官として東京天文台(現・国立天文台)で活動し、戦後の東京天文台における観測装置復旧の最初期の技術者であった。小学校時代の同級生に同じ天文学者の村山定男がいる。

 太陽観測及び天体観測において、恒星進化の研究を中心として行う。日本国内における恒星物理学的観測研究の魁となる。野辺山太陽電波観測所などの設営チームに加わる。天文学者ではあるが、教育者的側面が多く、非常に多くの著作を残しているほか、ジョージガモフの書籍などの翻訳もしている。


小野小町

 小野小町は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話をもち、後世に能や浄瑠璃などの題材ともなったが、小野小町像とされる絵や彫像は現存しない。


小野妹子

 小野妹子は、近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族で、春日氏の一族小野氏の出身の飛鳥時代の政治家で外交家である。『日本書紀』によれば大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。

 彼は、日本の通説で『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者であるとされる。


小渕恵三

 小渕恵三は、群馬県出身の日本の政治家である。衆議院議員、総理府総務長官、沖縄開発庁長官、内閣官房長官、外務大臣、内閣総理大臣、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁、自由民主党総裁などを歴任した。長らく竹下登の側近として活躍し、円満な性格から「人柄の小渕」の異名をもっている。


織田信長

 戦国時代から安土桃山時代の武将・戦国大名。天下布武をとなえ、天下統一を目前にしたが重臣明智光秀に反旗を許し本能寺で自害。


太田清蔵

 太田清蔵(5代目)は、現在の福岡県福岡市出身の日本の実業家である。元東邦生命保険会長・社長を歴任した。東邦生命社長の傍ら、大丸を福岡に誘致するなど、福岡市の経済発展に大きく貢献した。

 浮世絵が日本の代表的絵画であると認識し、江戸末期より明治にかけて多数の浮世絵が欧米に流出したことを嘆き、浮世絵の蒐集に努めた浮世絵コレクターとして知られる。


大塩平八郎

 大塩平八郎は、江戸時代後期の儒学者、陽明学者で、大坂町奉行組与力である。天保の大飢饉の時代、各地で百姓一揆が多発し大坂でも米不足が起こっていた。平八郎は奉行所に民衆の救援を提言したが拒絶され、仕方なく自らの蔵書を売却した資金で救済に努めた。

 世情を顧みず米の買い占めなどする大坂町奉行や豪商に対して、もはや武装蜂起以外にないと考え、天保8年2月19日に蜂起すべく準備を進めた。しかし、密告により決起当日に鎮圧されてしまう。世にいう〔大塩平八郎の乱〕である。


大久保利通

 日本の武士で薩摩藩士・政治家。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで〔維新の三傑〕と称される。維新十傑の1人でもある。文久2年、久光を擁立し京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向し、やがて久光の側近となる。公武合体路線から武力倒幕路線を指向するようになる。小松、西郷らとともに倒幕を計画したが、江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、王政復古のクーデターを実行。明治時代になり、初代内務卿の実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施し、富国強兵を唱え殖産興業政策を推進した。


大隈重信

 大隈重信は、日本の武士、佐賀藩士であり、尊皇攘夷派志士として活躍した。明治維新後、明治3年に参議となる。6年大蔵省事務総裁、ついで大蔵卿に就任する。征韓論争後、財政の責任者として大久保利通を補佐した。

 明治14年の政変で失脚するも、15年には立憲改進党を組織し、後の早稲田大学の前身となる東京専門学校創立者であり早稲田大学初代総長となる。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員などを歴任した。


大石内蔵助

 江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。俗称は大石内蔵助だが本名は大石良雄である。元禄赤穂事件で有名となり、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で名を残した。


尾崎行雄(尾崎咢堂)

 尾崎行雄は、日本の政治家であり尾崎咢堂とも呼ばれる。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、「憲政の神様」「議会政治の父」と称される。


尾崎放哉

 尾崎放哉は、日本の俳人で、種田山頭火らと並び自由律俳句の最も著名な俳人の一人とされる。東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険に勤務し出世コース真っ只中のエリートだったが、突然その生活を捨てて、俳句三昧の生活を送るようになる。

 最終的には、小豆島で極貧の中、俳句人生を送った。並ならぬ癖の悪さから周囲と和合することはなく、〔今一休〕と呼ばれた。自由奔放な句は高く評価され、代表句には『咳をしても一人』などがある。


尾崎豊

 日本のミュージシャン、シンガーソングライター。破滅的なパフォーマンス、心の内面を抉り出すような歌詞に、真実の愛や夢を託した生きざまが、1980年代の若者に共感を与え、カリスマ的存在となった。満26歳の若さで突然死亡した。その後、現在まで多くのミュージシャンやファンに影響を与えている。


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