1793年、フランス革命戦争が勃発、戦列艦アガメムノンの艦長として地中海方面に展開し、10月にはフランス艦との戦闘を経験する。1794年、コルシカ島で陸上戦闘を指揮し、カルヴィ攻略戦で右目の視力を失った。
1796年、地中海艦隊司令官ジョン・ジャーヴィスのもとで戦隊司令官に任ぜられ、翌年にはサン・ビセンテ岬の海戦に参加する。スペイン艦隊と激しい砲火を交え、敵艦2隻を拿捕する。この功績でバス勲爵士に叙せられ、青色艦隊少将へ昇進する。
1797年、カナリア諸島のテネリフェ島攻略作戦に失敗するが、戦闘で右腕を負傷し切断、隻眼・隻腕の提督となる。
1798年には地中海分遣艦隊を率いてトゥーロンで、エジプト遠征に向かうナポレオンのフランス艦隊の封鎖任務にあたるが、嵐を避けて寄港中に、フランス艦隊は出航してしまう。この結果、ナポレオンのエジプト上陸、アレクサンドリア入城を許してしまう。
しかし、アブキール湾停留中のフランス艦隊を発見し、これを撃滅する。世にいうナイルの海戦である。敗退したフランス海軍には、ネルソン恐怖症が広がる。
ナポレオン軍は、ヨーロッパへの帰路を絶たれ、エジプトに孤立し東方進出の野心が砕ける。これによりネルソンは、「ナイル及びパーナム・ソープのネルソン男爵」に叙せられる。
1801年、青色艦隊中将に昇進し、副司令官としてコペンハーゲンの海戦を指揮する。司令官のハイド・パーカーがあまりの激戦に「戦闘中止」命令の信号旗を掲げるも、望遠鏡を見えない右目に当てて黙殺したという逸話が有名である。この激戦に辛勝し、その戦功によってネルソン子爵に叙せられる。
1803年、地中海艦隊司令官、1804年、白色艦隊中将となる。
1805年、トラファルガー岬沖海戦で、いわゆる「ネルソン・タッチ」と呼ばれる戦法により、フランス・スペイン連合艦隊を撃破する。戦闘に先立ち掲げた信号旗〔英国は各員がその義務を尽くすことを期待する〕は現在でも名文句として記憶されている。
この海戦で、ネルソンは率先して危険な甲板上で指揮にあたっていたが、敵艦よりの狙撃手の対象となるのだった。ネルソン提督は、その戦勝と引き換えに、戦闘中接舷したルドゥタブルから狙撃され、戦死した。
この戦闘でのイギリス側死者数は449年、一方のフランス・スペイン連合艦隊での死者数は10倍の4,480人であった。イギリス艦隊が失った艦はゼロ、対するフランス・スペイン連合艦隊は大破・拿捕22隻を数え、海軍史上まれにみる大勝利であった。
宮中で報告を受けた国王および貴族は、空前の大勝利とネルソンの死を聞き、その死にざまに衝撃を受けた。翌年、君主以外では初となる国葬としてセント・ポール大聖堂に葬られた。現在、ロンドンのトラファルガー広場中心にはネルソン記念柱が据えられている。
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