その後、見聞を広めるために教師職を辞してスイスに移住し、気ままな生活をするが、スイスで話されるドイツ語とフランス語を習得する。さまざまな文献を読み、特にジョルジュ・ソレルの思想に感銘を受ける。後に「ファシズムの精神的指導者」「私の師」と述べている。
ムッソリーニは、熱狂的な共産主義者であるバラバーノフからマルクス・レーニン主義の徹底的な教育をうけ、完全な社会主義理論家となり、本格的に政治運動へのめり込むようになる。
スイスのイタリア語圏で労働運動に加わり、イタリア社会党系組織でイタリアからの移民者による労働組合の事務局長を務めたりするが、1903年に勃発したゼネラル・ストライキに参加して逮捕され、国外追放処分を受ける。
イタリアに戻ると、今度は徴兵義務期間を海外で過ごしたことで、イタリア警察に拘束されるが、軍へ入隊する条件で釈放された。
やがて、ムッソリーニはイタリア社会党の若手政治家として注目され、「ジュネーヴにおけるイタリア社会党のドゥーチェ(統領)」と呼ばれるようになる。
徴兵され入隊すると、狙撃部隊に配属される。当初は反体制派の人物として監視下にあったが、やがて一種の模範兵となる。兵役を終えると教師に復職する。政治活動でも社会党支部の地方機関誌『ラ・リーマ』の編集長となる。
1909年2月、ドイツ語を話せたことからイタリアを離れてオーストリア領トレント党支部の労働委員会に派遣され、機関紙『労働者の未来』の編集長として復帰した。
反オーストリア・反カトリック・反王政を説く左派的な民族主義を熱烈に訴え『労働者の未来』の購読者を増やした。
ムッソリーニの目指す平等主義・国際主義的な社会主義は、民族主義的な社会主義へと変化していった。彼は多数の合議ではなく、少数の政治的エリートが指導する体制でしか理想社会実現はできないとの信念を固くする。
第一次世界大戦後、自らの政党として国家ファシスト党(PNF)を結成、その統帥としてファシズム(結束主義)運動を展開する。ローマ進軍によって首相に任命され、ファシズム政権を樹立した。
1925年1月3日の議会演説で独裁体制を宣言し、同年12月24日に従来の閣僚評議会議長よりも強権を持つ「国家統領」を創設、自ら初代統帥に就任する。更に、首相職を含む複数の大臣職を恒久的に兼務して独裁体制を確立した。
更に「帝国の創設者」「ファシストの指導者」という肩書きをも手に入れ、議会指導下にあった軍も掌握して、国王・皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世との共同就任という形で統帥権(元帥首席)を奪取した。
第二次世界大戦が始まり、当初は中立的に様子見をしていたが、短期間でフランスが降伏すると、ドイツ側での世界大戦参加を決断する。しかし、これは大きな決断の誤りであった。
そして、戦況悪化の最中の1943年7月25日、ファシスト党内でのクーデターによって失脚する。
その後、北イタリアを占領したドイツの支援でイタリア社会共和国(RSI)及び共和ファシスト党(PFR)の指導者となる。とはいえ、実質はドイツ当局の傀儡的なものであった。
枢軸軍の完全な敗戦になると再度失脚する。そして、1945年4月25日、連合軍の支援を受けたパルチザンに捕らえられ、略式裁判で銃殺され、遺体はミラノのロレート広場に晒された。
良し悪しは別として、政治理論家としてのムッソリーニの業績は、ファシズム(結束主義)の創始者だという点である。彼は、既存の多くの思想、帝国主義、反共主義、ナショナリズム、コーポラティズム、国家サンディカリスムなどを理論上統合して、新しい政治思想 〔ファシズム〕 を構築したのである。
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