彼の弟子のカイレフォンがアポロンの神託所て、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねると、「ソクラテス以上の賢者は一人もいない」と答えたという。
自分はそれほどの賢者などではないと自覚していたソクラテスは驚き、それは何を意味するのかと自問した。そしてその神託に反証しようと思いを巡らせた。ここに、彼独特の思想や思考の形が出来たのだという。
彼は、巷で賢者とされる人たちと問答して、その人たちが自分より賢明であることを示して神託を反証するつもりであった。しかし、実際に賢者とされる人たちと話してみると、それは失望以外の何物でもないことを知ることとなった。世評の高い政治家も文学者も、自ら語ることを真に理解してすらいなかった、それどころか、それを説明してやるはめになってしまった。
かくして、ソクラテスは、「知らないことを知っていると思い込んでいる人よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢い」ということを悟ったのである。
ソクラテスは、「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」と解釈するようになり、それが神意であると考えた。こうして彼は、極貧生活もいとわず、家庭を犠牲にしてでも、報酬など受け取ることもなく、世間の賢者たちに無知を指摘して生きるようになる。
ソクラテスと対話した巷の賢者たちは、その無知蒙昧を指摘されることで彼は怨みをかい多くの敵を作ることとなる。やがて、ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられ、毒殺刑にされてしまう。
しかし、彼の死後になって、アテナイの人々は、偉大な人物を不当な裁判により抹殺してしまったことに気づき、今度は告訴人たちを裁判なしで処刑してしまったという。
彼は処刑までの猶予期間に、プラトンらにより逃亡や亡命を勧められたが、これを拒否し、自身の知への愛と、「単に生きながらえるより善く生きる」ことを決意していた。不正を行うよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。
紀元前399年、親しい人たちと最後の問答の後、ソクラテスはドクニンジンの杯をあおり、死に臨んだ。この顛末は、最大の弟子であるプラトンの著作に詳しく書かれている。
『ソクラテスの弁明』
『クリトン』
『パイドン』
ソクラテスは、自分の弟子などというものは一人もおらず、単に友達あるいは仲間という認識であった。
しかし、彼の思想に大きく影響を受けた人たち、カイレフォン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアスなどは紛れもなく彼の真の弟子たちであった。
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