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〔日本の偉人〕

伊達政宗

 
〔伊達政宗:珠玉の名言〕

・朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。

・大事の義は人に談合せず、一心に究めたるがよし。

・曇りなき 心の月を 先だてて浮世の闇を 照してぞ行く。(辞世の句)


 伊達政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、陸奥仙台藩の初代藩主である。幼少時に疱瘡(天然痘)に罹患したことで右目を失明したため、隻眼となり後世独眼竜と呼ばれる。

 豊臣秀吉が織田信長の全国統一を受け継いだ頃、秀吉から何度も上洛を促されたが中々応じず黙殺していた。秀吉の小田原征伐に参戦するよう催促され、結局小田原に至り、秀吉に服属し参戦する。

伊達政宗の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)

 遅参の故に、秀吉は会津領を没収したが、伊達家の72万石は安堵した。小田原が陥落して秀吉の日本統一が完成した。



 秀吉死後の慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐に軍を進めると、政宗はこれに従い、登坂勝乃が守る白石城を奪還する。

 ところが、家康が畿内を離れた隙に、石田三成らが毛利輝元を総大将とした西軍が家康ら東軍に対して挙兵する。下野国小山あたりまで北上していた家康は急きょ西へ引き返す。

 その後、家康は政宗に対し、以前に岩出山転封時に没収されて上杉領となってしまった政宗の旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す旨のお墨付きを政宗に与える。

 毛利輝元を総大将とする西軍と家康を中心とする東軍の両陣営は、最終的な関ケ原の合戦に至るまでに各地で戦闘を繰り広げる。

 西軍の上杉家重臣直江兼続率いる軍が、東軍の最上氏の領内に侵入すると、救援依頼を受けた政宗は、叔父・伊達政景率いる3,000の兵を派遣し、茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した。

 こうして、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、強大な権利を手中におさめ、幕藩体制確立へと向かう。

 関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、直江兼続もまた最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため南進し、10月6日に福島城主本庄繁長の軍勢と衝突する。

 政宗は、福島城の攻略に失敗、その後も何度か出兵するも、結局、旧領6郡のうち奪還出来たのは陸奥国刈田郡2万石のみであった。

 政宗は、恩賞の追加を申し出るものの、ことごとく却下されてしまい、領地は60万石となる。後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増があり62万石となる。

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(大坂の役)では大和口方面軍として布陣したが、和議が成立し、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたった。

 関ヶ原の戦いの後、政宗は家康の許可を得て、慶長6年(1601年)居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めた。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩62万石が誕生したのである。

 政宗は、仙台藩とエスパーニャとの通商を考えて、慶長18年(1613年)、エスパーニャ国王使節の協力によって、仙台領内にガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。

 家康の承認を得ると、家臣・支倉常長ら一行180人からなる慶長遣欧使節を、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した。


偉人のプロフィール

プロフィール
通称 〔通称〕
・伊達 政宗(だて まさむね)

本名 〔本名〕
・伊達 藤次郎 政宗(だて とうじろう まさむね)

別名 〔幼名〕梵天丸
〔元服〕伊達藤次郎政宗
〔異名〕独眼竜
〔仮名〕藤次郎
〔渾名〕独眼竜
〔神号〕武振彦命

称号 〔官位〕
・従五位下美作守
・左京大夫
・侍従・越前守兼任
・従四位下・右近衛権少将・越前守如元
・陸奥守・越前守
・正四位下・参議
・従三位権中納言
・贈正三位
・贈従二位

時代 〔時代〕
・戦国時代から江戸時代前期

生誕 〔生誕〕永禄10年8月3日(1567年9月5日)
〔生誕地〕出羽国米沢城(山形県 米沢市)

死没 〔死没〕寛永13年5月24日(1636年6月27日)
〔没地〕江戸
〔戒名〕瑞巌寺殿貞山禅利大居士
〔尊称〕没後は法名から貞山公と尊称された。
〔墓所〕
・瑞鳳殿
・妙心寺塔頭蟠桃院

国籍 日本国
言語 日本語
居住地 〔居城〕
・米沢城(山形県米沢市)
・黒川城(福島県会津若松市)
・米沢城(山形県米沢市)
・岩出山城(宮城県大崎市)
・仙台城(宮城県仙台市青葉区)
・若林城(宮城県仙台市若林区)

学歴 〔修学〕
・虎哉禅師を師に学ぶ。

職業 〔職業〕
・戦国武将

分野 〔ジャンル〕
・出羽国と陸奥国の戦国大名
所属 〔主君〕
・豊臣秀吉
・豊臣秀頼
・徳川家康
・徳川秀忠
・徳川家光

〔藩〕仙台藩初代藩主
〔氏族〕伊達氏

業績 〔業績〕
・伊達家を江戸時代を通じて大大名として存続する基礎を作った。

・東北最大の都市である仙台の基礎を作った。

・領内の開墾を積極的にすすめ、東北地方が米どころといわれるようにした。

・秀吉に服従して京都や大阪で生活している間に都の文化を身につけ、それを東北地方に伝えた。

・家臣・支倉常長ら一行180人からなる慶長遣欧使節を、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した。

作品
受賞歴
名言 〔伊達政宗の名言〕

・曇りなき 心の月を 先だてて浮世の闇を 照してぞ行く。(辞世の句)

・物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず。

・まともでない人間の相手をまともにすることはない。

・大事の義は人に談合せず、一心に究めたるがよし。

・朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。

・気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。

・馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。

・今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

・仮初にも人に振舞候は、料理第一の事なり。何にても、其の主の勝手に入らずば、悪しき料理など出して、差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん。

・わきて釣りには他念なきものなり。太公望、おもしろがりたるも道理かな。罪も報(おくい)も後の世も忘れはてておもしろやと、げにさもあらずるものを。

・人がこの世へ生まれて百万長者も、最後に及んで要する所は、方六尺の穴一つ、戒名を刻んだ石碑一つで、家も、倉も、金も、地所も、妻も、子も、すべてを残して、死出の旅路をただ一人辿る。曾(かつ)て我が者と思ったもの、一として我に伴うはない。我は客人であったのである。

・伊達政宗五常訓
「仁」過ぎれば 弱くなる。
「義」過ぎれば 固くなる。
「礼」過ぎれば 諂(へつら)いとなる。
「智」過ぎれば 嘘をつく。
「信」過ぎれば 損をする。

サイト
その他  政宗が天然痘により、右眼が飛び出した様な状態になり、塞ぎ込んでいたとき、父親伊達輝宗が小十郎を政宗の守役にし任じた。

 政宗は 小十郎に心を許し、「この右眼を切ってくれ」と命じた。小十郎は輝宗の許可を得て、政宗の右眼を切り取ったという。それ以降、政宗は本来の明るい政宗に戻ったという。

 政宗の命でエスパーニャとの軍事同盟交渉に当たった支倉常長は、ローマ教皇にも謁見したが、この時代にこのようなことがなされたことは特筆すべきことである。

 このとき、仙台藩士の何人かがスペインのコリア・デル・リオに留まったが、その末裔とされる人たちが現存していて、彼らは「日本」を意味する「ハポン」の姓を名乗っている。

 政宗は、他国に力を見せるため、きらびやかな軍装を部下たちに与え、それが後に『伊達者』と呼ばれるようになった。


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