|
アマゾン〔日本の偉人〕〔た〕で始まる日本の偉人伊達政宗(だて まさむね) |
|
|
|
|
秀吉死後の慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐に軍を進めると、政宗はこれに従い、登坂勝乃が守る白石城を奪還する。 |
プロフィール |
通称 |
〔通称〕 ・伊達 政宗(だて まさむね) |
本名 |
〔本名〕 ・伊達 藤次郎 政宗(だて とうじろう まさむね) |
別名 |
〔幼名〕梵天丸 〔元服〕伊達藤次郎政宗 〔異名〕独眼竜 〔仮名〕藤次郎 〔渾名〕独眼竜 〔神号〕武振彦命 |
称号 |
〔官位〕 ・従五位下美作守 ・左京大夫 ・侍従・越前守兼任 ・従四位下・右近衛権少将・越前守如元 ・陸奥守・越前守 ・正四位下・参議 ・従三位権中納言 ・贈正三位 ・贈従二位 |
時代 |
〔時代〕 ・戦国時代から江戸時代前期 |
生誕 |
〔生誕〕永禄10年8月3日(1567年9月5日) 〔生誕地〕出羽国米沢城(山形県 米沢市) |
死没 |
〔死没〕寛永13年5月24日(1636年6月27日) 〔没地〕江戸 〔戒名〕瑞巌寺殿貞山禅利大居士 〔尊称〕没後は法名から貞山公と尊称された。 〔墓所〕 ・瑞鳳殿 ・妙心寺塔頭蟠桃院 |
国籍 | 日本国 |
言語 | 日本語 |
居住地 |
〔居城〕 ・米沢城(山形県米沢市) ・黒川城(福島県会津若松市) ・米沢城(山形県米沢市) ・岩出山城(宮城県大崎市) ・仙台城(宮城県仙台市青葉区) ・若林城(宮城県仙台市若林区) |
学歴 |
〔修学〕 ・虎哉禅師を師に学ぶ。 |
職業 |
〔職業〕 ・戦国武将 |
分野 |
〔ジャンル〕 ・出羽国と陸奥国の戦国大名 |
所属 |
〔主君〕 ・豊臣秀吉 ・豊臣秀頼 ・徳川家康 ・徳川秀忠 ・徳川家光 〔藩〕仙台藩初代藩主 〔氏族〕伊達氏 |
業績 |
〔業績〕 ・伊達家を江戸時代を通じて大大名として存続する基礎を作った。 ・東北最大の都市である仙台の基礎を作った。 ・領内の開墾を積極的にすすめ、東北地方が米どころといわれるようにした。 ・秀吉に服従して京都や大阪で生活している間に都の文化を身につけ、それを東北地方に伝えた。 ・家臣・支倉常長ら一行180人からなる慶長遣欧使節を、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した。 |
作品 | |
受賞歴 | |
名言 |
〔伊達政宗の名言〕
・曇りなき 心の月を 先だてて浮世の闇を 照してぞ行く。(辞世の句) |
サイト | |
その他 |
政宗が天然痘により、右眼が飛び出した様な状態になり、塞ぎ込んでいたとき、父親伊達輝宗が小十郎を政宗の守役にし任じた。 政宗は 小十郎に心を許し、「この右眼を切ってくれ」と命じた。小十郎は輝宗の許可を得て、政宗の右眼を切り取ったという。それ以降、政宗は本来の明るい政宗に戻ったという。 政宗の命でエスパーニャとの軍事同盟交渉に当たった支倉常長は、ローマ教皇にも謁見したが、この時代にこのようなことがなされたことは特筆すべきことである。 このとき、仙台藩士の何人かがスペインのコリア・デル・リオに留まったが、その末裔とされる人たちが現存していて、彼らは「日本」を意味する「ハポン」の姓を名乗っている。 政宗は、他国に力を見せるため、きらびやかな軍装を部下たちに与え、それが後に『伊達者』と呼ばれるようになった。 |