〔朝永振一郎〕
朝永振一郎は、東京生まれ京都育ちの日本の物理学者である。湯川秀樹とは中学校~大学卒業まで同級であった。
京都帝国大学理学部物理学科を卒業、1931年にドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学んだ。
1947年、くりこみ理論を形成して水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を成功させた。この業績により、1965年、ノーベル物理学賞を受賞した。
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〔東郷青児〕
東郷青児は日本の洋画家である。夢見るような甘い女性像に人気があり、昭和の美人画家として一世を風靡した。「二科会のドン」とも呼ばれていた。
社交的な性格で女性スキャンダルも多かった。
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〔東郷平八郎〕
東郷平八郎は、日本の武士で薩摩藩士・軍人・元帥海軍大将である。明治時代、日本海軍の指揮官として日清戦争、日露戦争の大勝利を導いた。
これら勝利により日本は〔世界の五大国〕の一員となるまでに存在感を示すようになった。
日露戦争における日本海海戦では、当時世界最強を誇ったロシア帝国のバルチック艦隊を殲滅し、その名を世界の知らしめた。
旗艦三笠には「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」を意味するZ旗を掲げて士気を鼓舞した。
大本営に対しては、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」と打電した。
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〔東條英機〕
東條英機は、日本の政治家であり陸軍軍人、陸軍大臣である。内閣総理大臣、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣などを歴任している。
彼は、現役軍人のまま昭和16年10月18日に第40代内閣総理大臣に就任した。昭和16年12月8日、真珠湾攻撃によりアメリカに宣戦布告し太平洋戦争に突入した。
敗戦時に拳銃自殺を図るも連合国軍により一命を取りとめた。その後、いわゆる東京裁判によってA級戦犯として起訴され、昭和23年12月23日に処刑された。満64歳であった。
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〔徳川家康〕
徳川家康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり戦国大名である。江戸幕府の初代征夷大将軍となり、三英傑の一人と呼ばれる。。家系は三河国の国人土豪・松平氏であるが、本姓は源氏だとされる。
徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、15世紀の応仁の乱以降100年にも及んだ戦国時代に終止符を打った。江戸幕府を開き幕藩体制を敷いて17世紀から19世紀後半に至る264年間の江戸時代を画した。
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〔徳川吉宗〕
徳川吉宗は、江戸幕府第8代将軍である。徳川家康の曾孫にあたる。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。
徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれ、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍家継の死により秀忠の系統の男系男子が途絶えたことで、御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。
紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、市民の意見を受ける目安箱の設置などの享保の改革を実行し、幕府財政の復興をなし、江戸時代を代表する名君の一人とされる。
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〔徳川光圀〕
徳川光圀は、水戸藩初代藩主徳川頼房の三男であり徳川家康の孫に当たり、水戸藩2代目藩主であり『水戸黄門』として知られる。
藩主時代、寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地探検などを行う。儒学を奨励、彰考館を設け『大日本史』を編纂した。この書物編纂のために家臣を諸国に派遣したり、隠居後に水戸藩内を巡視したなどから、後世の『水戸黄門漫遊記』と呼ばれる逸話の主となった。
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〔徳田秋声〕
徳田秋声は、現在の金沢市横山町出身の小説家である。幼少時は病弱で小学校へも遅れて入学するほどであった。高等中学校に入学のころから読書に目覚め小説家を目指すようになった。
1895年、尾崎紅葉の門下に入る。翌年、『薮かうじ』を「文芸倶楽部」発表して「めざまし草」の月評欄に取り上げられ、これが実質的処女作となる。1900年「讀賣新聞」に連載した『雲のゆくへ』が出世作となる。
その後も多くの作品を残したが、彼の代表作には『黴』『あらくれ』『縮図』などがある。
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〔徳富蘇峰〕
徳富蘇峰は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリストであり思想家、歴史家、評論家である。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られ、小説家徳冨蘆花の兄にあたる。
徳富蘇峰は、明治9年に上京し、同志社創設者の新島襄により洗礼を受けクリスチャンいなる。言論で身を立て、地上に「神の王国」を建設することを目指したという。
その後も多くの紆余曲折を経て、思想家、言論人として活動するが、その思想の揺れは大きく、行動も変化に富み、活動範囲も多岐にわたった。蘇峰が大正6年に発表した『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は約100万部にのぼるベストセラーになった。
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〔豊臣秀吉〕
豐臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で天下人・関白・太閤であり、三英傑の一人とされる。尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。当初、織田信長に仕官し、逸話では草履取りなどをしながら次第に頭角を現し、出自より実力を重んじる信長に気に入られ目覚ましい勢いで出世していった。
本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、いわゆる「中国大返し」により急遽、京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。信忠の遺児三法師を擁して織田家内部で勢力争いを征し信長の後継の地位を得る。
大坂城を築城し、関白・太政大臣に就任し日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たす。太閤検地や刀狩などを行い、現代の平和な日本の礎を築いた。秀吉の死後、豊臣家は急速に勢力を弱め、やがて徳川家康により滅ぼされた。
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〔豊田喜一郎〕
豊田喜一郎は、静岡県敷知郡吉津村山口生まれの経営者、技術者、トヨタ自動車創業者である。1920年、東京帝国大学工学部機械工学科卒業し、経営者を志し、東京帝国大学法学部で学んだ。
その後、豊田紡織に入社し、サンフランシスコ、ロンドン、オールダムなどを視察した。碧海郡刈谷町に試験工場を作り、自動織機の開発を開始する。1926年には豊田自動織機製作所を設立し常務取締役に就任した。当時黎明期の自動車産業の将来を信じ、所内に自動車製作部門を新設している。
1937年にはトヨタ自動車工業株式会社として独立し、同年同社の副社長に就任した。その後、社長職を務め、世界に誇る自動車産業の礎となった。
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〔豊田佐吉〕
豊田佐吉は、日本の発明家で実業家である。豊田紡織、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所を創業し、トヨタグループの創始者である。
佐吉は小学校卒業後、大工の修業を始めたが、18歳のころ発明で社会に貢献したいと考えるようになり、手近な手機織機の改良を始めた。その後も、発明を続け、豊田式木鉄混製力織機や無停止杼換式自動織機を初めとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をしたという。
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〔利根川進〕
利根川進は、愛知県名古屋市生まれの生物学者である。東京都立日比谷高等学校を卒業後、京都大学理学部化学科、同大学院理学研究科に進み、同大学ウイルス研究所の渡辺格に師事したが、渡辺の薦めにより分子生物学研究のためにカリフォルニア大学サンディエゴ校へと留学する。
カリフォルニア大学サンディエゴ校博士課程修了しPh.D.を取得、米ソーク研究所・ダルベッコ研究室でポスト・ドクター研究員になるなどして研究を重ねる。1987年、免疫グロブリンの特異な遺伝子構造を解明した功績によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。
現在、マサチューセッツ工科大学教授、ハワード・ヒューズ医学研究所研究員、理化学研究所脳科学総合研究センターセンター長、理研-MIT神経回路遺伝学研究センター長等も兼任している。
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