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〔日本の偉人〕

東條英機

 

 東條英機は、日本の政治家であり陸軍軍人、陸軍大臣である。内閣総理大臣、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣などを歴任している。

 彼は、現役軍人のまま昭和16年10月18日に第40代内閣総理大臣に就任した。昭和16年12月8日、真珠湾攻撃によりアメリカに宣戦布告し太平洋戦争に突入した。

東條英機の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)

 真珠湾攻撃に始まる緒戦で、日本軍の快進撃が続き、予想外のスピードで勝ち進んだ。その結果、占領地域が東南アジア全域に広がり、戦線はアメリカ本土沿岸からアフリカ沿岸、オーストラリアにまで拡大してしまう。



 もはや国力をはるかに超える状況になってしまった上に、ミッドウェイ海戦での大敗北により、戦況は陰りを見せ始める。

 一方で、1943年にはいると、三国同盟を結んでいたドイツ国防軍もアフリカ戦線で敗北がはじまり、更にイタリア王国が降伏してしまう。日本はたった一国だけでアメリカやイギリス、オーストラリアなどの連合国に対峙することになってしまった。

 これでも日本は抵抗を続けたために、結局、原子爆弾を落とされ、ついに敗戦を迎えたのである。

 東條英機は、敗戦時に拳銃自殺を図るも連合国軍により一命を取りとめる。その後、連合国による東京裁判にて開戦の罪(A級戦犯)および殺人の罪(BC級戦犯)として起訴され、絞首刑の判決を受ける。1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑が執行された。

 1941年(昭和16年)8月27・28日両日に首相官邸で『第一回総力戦机上演習総合研究会』が開かれた。その会議で総力戦研究所は日米戦争は「日本必敗」との報告行った。

 しかし、この会議に近衛内閣の陸軍大臣として参加した東条英機は「日本必敗」を承知の上で太平洋戦争に突入したことでその罪は大きい。


偉人のプロフィール

プロフィール
通称 〔通称〕
・東條 英機(とうじょう ひでき)

本名 〔本名〕
・東條 英機(とうじょう ひでき)

別名
称号 〔栄典〕
・陸軍大将
・従二位
・勲一等旭日大綬章
・勲一等瑞宝章
・功二級金鵄勲章

・ドイツ鷲勲章
・聖マウリッツィオ・ラザロ勲章

時代 〔時代〕
・明治時代~昭和時代

生誕 〔生誕〕1884年7月30日(明治17年)
〔生誕地〕東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)

死没 〔死没〕1948年12月23日(戦犯として処刑)(64歳没)
〔没地〕東京都豊島区
〔墓所〕

国籍 日本国
言語 日本語
居住地
学歴 〔学歴〕
・番町小学校
・四谷小学校
・学習院初等科
・青山小学校
・東京府城北尋常中学校
・東京陸軍地方幼年学校
・陸軍中央幼年学校
・陸軍士官学校
・陸軍大学校

職業 〔職業〕
・日本の陸軍軍人
・政治家

〔所属政党〕
・大政翼賛会 (1941-1944)

〔軍人〕
・陸軍次官
・陸軍航空総監
・陸軍大臣
・参謀総長

〔政治家〕
・内閣総理大臣(第40代)
・内務大臣
・外務大臣
・文部大臣
・商工大臣
・軍需大臣

分野 〔ジャンル〕
・大日本帝国海軍
・太平洋戦争(大東亜戦争)

所属 〔所属〕
・大日本帝国海軍

業績 〔業績〕
・陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任し、在任中に太平洋戦争(大東亜戦争)を決断突入した。

・敗戦後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。

・その後、いわゆる東京裁判によってA級戦犯として起訴され、昭和23年12月23日に絞首刑に処された。満64歳であった。

作品
受賞歴
名言 〔東條英機の名言〕



サイト
その他


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