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〔世界の偉人〕

〔さ〕で始まる世界の偉人

サルトル


あ行か行さ行た行な行
は行ま行や行ら行わ行

さしすせそ

〔さ〕で始まる世界の偉人

サーゲイ・ブリン
ザッカーバーグ
サッチャー
サド
サハロフ
ザビエル
サマセット・モーム
サミュエルソン
サモスのコノン
サルトル
サリヴァン先生
三蔵法師(玄奘三蔵)

 サルトルは、フランスの哲学者・小説家・劇作家である。強度の斜視があり、1973年には右目を失明している。

 内縁の妻、シモーヌ・ド・ボーヴォワールとは、結婚関係を維持しつつお互いの自由恋愛を保障するという前衛的な、契約結婚を結び、〔サルトルとボーボワールの関係〕などと呼ばれた。

サルトルの肖像・写真 
(出典:wikipedia)

 サルトルには非常に多くの哲学著作や小説、戯曲などがあるが、代表作には『水いらず』『嘔吐』『存在と無』などがある。

 サルトルは、1905年6月21日、フランスのパリで生まれたが、海軍将校だった父親が乳幼児時代に熱病で亡くなり、母方の祖父に引き取られ育てられる。この祖父はドイツ語教師で深い教養の持ち主で、サルトルの学問的探究心を刺激したとされる。



 サルトルは、パリのブルジョワ知識人階級の中で育ち、1915年にはパリの名門リセであるアンリ4世校で学ぶが、ここで後に作家となるポール・ニザンと知り合う。

 1917年にはラ・ロシェルの高等中学校に転校するが、溶け込めず、美少女を口説こうとして失敗し、自身の醜さを自覚したことなどの悪いエピソードなどもあり、案じた家族によって、1920年に再びアンリ4世校に転校、ニザンとも再会する。

 1922年には、やはり名門リセであるリセ・ルイ=ル=グランの高等師範学校準備学級に移る。そして、在学中に刊行した同人雑誌「無名誌」に短編小説『病める者の天使』を発表した。

 1924年に高等師範学校入学する。1928年にはアグレガシオン(1級教員資格)試験に挑戦するが失敗、翌年再挑戦して首席合格する。ニザンも同年に合格する。この頃、シモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い2年間の契約結婚を結んでいる。

 この契約結婚は、結婚関係を持ちながら、お互いの自由恋愛を認めるというやや奇妙で前衛的なものであった。しかし、この関係は、いくつかの紆余曲折を得ながらも、実質的にはサルトルが死去するまでの50年間にわたって維持された。

 1931年にルアーブルの高等中学校の哲学科で教師となり、『真理の伝説』を執筆したが、説得力がない本で出版は拒否された。

 1935年には、想像力とは何かを知るための実験として、友人の医師ラガッシュにより メスカリン注射を受け、蟹や蛸になったような幻覚に襲われるようになり、甲殻類に対する恐怖は生涯続いたという。

 1936年~1939年、ル・アーヴルやパリで教鞭を執る。哲学・文学での執筆活動を続けるが、1938年に代表作のひとつとなる小説『嘔吐』を出版して名声を博す。

 その後、第二次世界大戦での兵役を召集されるが、1940年には捕虜となる。1941年には、偽の身体障害証明書によって収容所を釈放される。

 1943年には主著となる『存在と無』を出版する。この書は、フッサール現象学、精神分析学とハイデッガーの存在論に強く影響されている。

 戦争体験から政治的関心が強くなり、1945年にはボーヴォワールやメルロー=ポンティらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行、著作活動の発表をこの雑誌上で行うようになる。

 サルトルの基本思想は、今まさに生きている自分自身の存在である実存がすべてであるとするもので、無神論的実存主義と呼ばれている。サルトルは、「実存は本質に先立つ」とし、「人間は自由という刑に処せられている」と断言している。

 やがて、サルトルの唱える実存主義は、フランスをはじめ世界中に知られるようになる。サルトルは徐々にソ連でのマルクス主義を支持するようになり、アルベール・カミュと対立、いわゆる「カミュ=サルトル論争 」の末に、カミュやメルロー=ポンティと決別する。

 時が経ち、世に構造主義が台頭すると、サルトルの実存主義は「主体偏重の思想である」としてして批判されるようになる。

 サルトルは、知識人として、自らの政治的立場をより鮮明にし、アルジェリア戦争の際には、フランスからの独立を目指す民族解放戦線を支持する。アルジェリア独立後は、キューバ革命後のキューバの革命政権を支持し、脱植民地化時代における第三世界の民族解放運動を支持した。

 もともとはソ連共産党の養護派だったが、中国に反スターリン主義の毛沢東主義者主導の学生運動が起こると、それを支持するようになる。

 1964年には、ノーベル文学賞に選ばれたが、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と言って、これを辞退した。そればかりか、彼は公的な全ての賞を辞退している。

 1973年2月3日には、ベニ・レヴィ、セルジュ・ジュリとともに左派日刊紙「リベラシオン」を創刊し、この紙はフランスの主要日刊紙の一つとなる。

 1973年に激しい発作に襲われ、右目が失明する。その後の活動は大きく制限されるようになる。自力での執筆が不可能と知り、他者との共同作業による著作を試みるが多くは失敗に終わっている。

 1980年4月15日、肺水腫によりパリで死去した。没年満74歳であった。死後に、ボーヴォワールおよび養女のアルレット・エル・カイムらの編集により、多くの著作が出版された。


偉人のプロフィール

プロフィール
通称 サルトル
本名

ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(フランス語: Jean-Paul Charles Aymard Sartre)

別名

称号

時代

20世紀の哲学

生誕・生誕地

1905年6月21日・フランス:パリ

死没

1980年4月15日(満74歳没)・フランス:パリ

国籍

フランス

言語

フランス語

居住地

フランス

学歴

職業

哲学者・小説家・劇作家

分野

〔研究分野〕

・形而上学
・認識論
・倫理学
・意識
・自意識
・文学
・政治哲学
・存在論

所属

〔学派〕

・大陸哲学
・実存主義
・現象学
・解釈学
・西欧マルクス主義
・アナキズム

業績

〔主な概念〕

・悪しき信念
・「実存は本質に先立つ」
・無
・「地獄とは他人である」
・状況

処女作

〔短編小説〕

『病める者の天使』(同人雑誌「無名誌」)

作品

〔哲学著作〕

『想像力』
『自我の超越』
『情緒論素描』
『想像力の問題』
『存在と無』
『方法の問題』
『弁証法的理性批判』
『倫理学ノート』
『真理と実存』

〔評論〕

『ユダヤ人』
『実存主義とは何か』
『シチュアシオン』
『文学とは何か』

〔作家論〕

『ボードレール』
『聖ジュネ──殉教者と反抗』
『家の馬鹿息子』
『ステファヌ・マラルメ論』

〔小説〕

『壁(サルトル)』
『エロストラート』
『水いらず』
『部屋』
『一指導者の幼年時代』
『嘔吐』
『自由への道』
 第一部『分別ざかり』
 第二部『猶予』
 第三部『魂の中の死』
 第四部『最後の機会』
『アルブマルル女王もしくは最後の旅行者』

〔戯曲〕

『蝿』
『出口なし』
『恭しき娼婦』
『墓場なき死者』
『汚れた手』
『悪魔と神』
『キーン』
『ネクラソフ』
『アルトナの幽閉者』
『トロイヤの女たち』

受賞歴

名言

サイト

その他


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