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アマゾン〔世界の偉人〕〔さ〕で始まる世界の偉人サッチャー |
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1950年に、保守党から下院議員選挙に立候補するも落選する。1951年に10歳年上のデニス・サッチャーと結婚し法律の勉強を始め、1953年には弁護士資格を取得する。 1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からはヒース内閣で教育科学相を務める。 1974年の選挙で保守党は敗北し、翌年2月に保守党党首選挙が行われる。当初、サッチャーは党内のキース・ジョセフを推挙していたが、彼が数々の舌禍を引き起こして立候補を断念してしまう。このため、教育科学相の経験しかないサッチャーだったが、右派から出馬し、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。 この年、イギリスを含む全35ヶ国でヘルシンキ宣言が調印、採択されたが、サッチャーはこれを痛烈に批判した。これに対して、ソビエト連邦の国防省機関紙「クラスナヤ・ズヴェズダ(「赤い星」)が、記事の中で、サッチャーを鉄の女と決めつけ非難した。 この「鉄の女」という呼び名は、サッチャーの強硬な反共主義を揶揄するものだったが、あらゆる場面で有名となり、サッチャーの愛称として定着する。サッチャー自身も気に入っていたという。 1979年の選挙で、それまで継続されてきた、高福祉の社会保障政策、社会保障支出の拡大継続と、経済の規制緩和、通信や鉄道、航空などの民営化による、イギリス経済の競争力強化を公約に掲げ、保守党を大勝に導き、女性初の首相に就任する。 新自由主義あるいは新保守主義と呼ばれる政策を唱え、イギリス経済の建て直し、政府の市場への介入を抑制する政策を実施した。 1982年には、アルゼンチン軍がフォークランド諸島へ侵攻する事件が発生したが、サッチャーが直ちに艦隊、爆撃機をフォークランドへ向かわせた。多数の艦艇を失うなどの犠牲もあったが、2か月後の6月14日にアルゼンチン軍を放逐した。サッチャーによるこの功績はイギリス国民に絶賛を浴びた。 この際、サッチャーは、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」と述べた。戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率73%を記録する。 このフォークランド紛争以降、保守党は総選挙で勝利し、サッチャーはより保守的、急進的な経済改革の断行するようになる。 サッチャーは過去のナチス・ドイツとの激しい戦争の経験から、ドイツに対して強い警戒心を抱いていた。東西ドイツ再統一が実現すれば、コールが英雄となり第2のヒトラーとなり、第二次大戦前までのドイツの領土すべてを要求してくるのではと恐れていた。サッチャーは、「コールはドイツが分割された理由を分かっていない」と憤ったという。 保守的・急進的改革を断行する強い姿勢で、3度の総選挙にぎりぎり乗り切ったが、任期の末期では、人頭税の導入を提唱して国民の強い反発を受けるなどで、求心力は低下し、結局11月22日に首相および保守党党首を辞任すると表明した。1992年以降は貴族院議員を務め、政治の表舞台から姿を消した。 その後、2008年には、サッチャーの認知症が進行したと、長女キャロルが証言している。夫が亡くなったことも忘れるほどだったと。2012年12月21日、膀胱腫瘍の手術を受けた。2013年4月8日、脳卒中のため死去した。没年87歳であった。 |
プロフィール | |
通称 | サッチャー |
本名 |
サッチャー女男爵マーガレット・ヒルダ・サッチャー(イギリス英語: Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS) |
別名 |
鉄の女 |
称号 |
一代貴族:男爵 |
時代 |
20世紀~21世紀初頭 |
生誕・生誕地 |
1925年10月13日・イギリス:グランサム |
死没 |
2013年4月8日(満87歳没)・イギリス:ロンドン |
国籍 |
イギリス |
言語 | 英語 |
居住地 |
イギリス |
学歴 |
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職業 |
イギリスの政治家 |
分野 |
イギリスの首相 |
所属 |
〔所属政党〕:保守党 |
業績 |
〔イギリスの首相〕 |
作品 |
〔著作〕 |
受賞歴 |
〔授爵・叙勲〕 |
名言 |
〔名言〕 |
サイト | 〔公式サイト〕:Margaret Thatcher Foundation |
その他 |
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