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アマゾン〔世界の偉人〕〔さ〕で始まる世界の偉人サマセット・モーム |
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サマーセット・モームは、1874年1月25日にフランス パリで、4人兄弟の末子として生まれた。両親はともにイギリス人で父親はイギリス大使館勤務の顧問弁護士であった。
幼くして両親を失い、10歳のときに孤児になってしまい、牧師をしていた叔父ヘンリー・マクドナルドに引き取られたが、叔父とは折り合いが悪く、孤独な田舎暮らしをして育った。 13歳でカンタベリーのキングズ・スクールに入学するも、英語が苦手なうえどもりもあって苛めにあい育った。 14歳頃肺結核となり、南仏で転地療養し、気ままな青春の日々を経験し、16歳のときドイツのハイデルベルク大学に遊学する。多くの人と接することで、法律家や牧師などには向いていないことを悟り、作家を目指すようになる。 18歳で、ロンドンの聖トマス病院付属医学校に入学するが、学業は熱心でなく、耽美派などの文学書を読みふける。貧民街での生活や見習いでの病院勤務で、生々しい人間の姿を知ることとなる。 この経験から、1897年に処女作『ランペスのライザ』を出版したが、それほど売れなかった。医学校を卒業して医師の資格を得る。文学者を目指していくつかの作品を発表したが芽がでることもなく、この時期の作品の多くを自ら封印している。 彼は、生涯を通じて各地を旅行する作家となるが、作家としてある程度認知されるようになると、先ずスペイン・アンダルシア地方を旅行し、1905年に印象旅行記『聖母の国』を出版した。この地には30年後にも旅行し、歴史物語『ドン・フェルナンド』を発表している。 30歳ころからはパリに長期滞在しながら、イタリア各地などをしばしば訪問している。やがて、戯曲の執筆を始めて、『信義の人』『ドット夫人』『ジャック・ストロー』『スミス』などが上演されるようになり、劇作家として認知される。 1912年、38歳になる頃より、半生を振り返る意味での大作『人間の絆』の執筆を開始している。『人間の絆』の前半部分には、幼少時に亡くした母への思慕や、不仲な叔父と暮らした少年期の孤独な生活の様子が描写されている。 1914年、第一次世界戦争が勃発すると、志願してベルギー戦線の赤十字野戦病院に勤務する。やがて諜報機関に転属しジュネーヴに滞在して、表向きは劇作家を続けながら、諜報活動を行う。1915年に大作となる『人間の絆』を出版するが特に注目されなかった。 1916年、健康上の理由で諜報活動を休止し、アメリカに渡り、タヒチ島などの南太平洋の島々を訪れている。1917年には、日本、シベリア経由でロシア革命の中のペトログラードへと向かう。ドイツとの単独講和阻止のための任務だったが、その諜報活動は失敗に終わる。 健康状態が悪化したため帰国し、スコットランドのサナトリウムで療養することになる。このころ、画家ゴーギャンの生涯をもとに『月と六ペンス』を書き始める。これが1918年に出版され、アメリカでベストセラーとなる。それにより、『人間の絆』も再評価され、世界的に有名な作家となる。 そして、『木の葉のそよぎ』や『お菓子とビール』『劇場』などの長編を書き、戯曲の「おえら方」や「ひとめぐり」などを発表する。「おえら方」は1917年にアメリカで上演され大成功を収めた。こうして、彼は、1930年代末の第二次世界大戦勃発まで盛んに執筆活動を行った。 1920年以降は、世界各国、各地を訪れながら、執筆活動を続け非常に多くの作品を残している。1965年12月16日、リヴィエラの邸宅で死去した。没年91歳だった。 |
プロフィール | |
通称 | サマセット・モーム |
本名 |
ウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham) |
別名 |
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称号 |
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時代 |
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生誕・生誕地 |
1874年1月25日・フランス:パリ |
死没 |
1965年12月16日・フランス:ニース |
国籍 |
イギリス |
言語 | 英語 |
居住地 |
イギリス |
学歴 |
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職業 |
イギリスの小説家、劇作家 |
分野 |
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所属 |
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業績 |
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処女作 | 『ランペスのライザ』 |
作品 |
〔長編作品〕 |
受賞歴 |
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名言 |
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サイト |
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その他 |
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