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アマゾン〔世界の偉人〕〔し〕で始まる世界の偉人シーボルト |
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ヴュルツベルク大学では、思弁的医学から、臨床の正確な観察や記述などを重視していた。教授たちは皆医学での学位を持ち、植物学に強い関心を寄せていた。このような中でシーボルトも植物学に興味を抱くようになる。 1820年には医師の国家試験に合格し、ハイディングスフェルトで開業する。しかし、誇り高いシーボルトはただの町医者で終りたくはなかった。東洋に興味を持つシーボルトは、1822年にオランダのハーグへ行き、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐及び調査任務付きの辞令を受ける。 1822年9月に、ロッテルダムから出帆し、喜望峰経由で1823年3月にジャカルタ市内の第五砲兵連隊付軍医に配属されるが、滞在中にオランダ領東インド総督に日本研究を志願し認められる。 1823年6月末にバタヴィアを出発し8月には来日し、長崎の出島のオランダ商館医となり出島内で開業する。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、蘭学による西洋医学教育を開始する。また、長崎の町での診察を特別に許され、感謝されたという。 日本各地から多くの医者や学者が講義を受けに集まったが、中でも高野長英や二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らは、後に医者や学者として活躍した。 シーボルト自身は、日本の文化について熱心に研究した。1825年には出島に植物園を作り、日本を去るまでに1400種以上の植物を栽培したとう。 1826年4月、カピタンと呼ばれるオランダ商館長の江戸幕府訪問に随行し、道中各地で日本の自然、地理、植生、気候、天文などを調査・研究する。この年には将軍徳川家斉に謁見している。また、江戸で学者らと交友したり、蝦夷地や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保らとも接触している。そして、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送っている。 最上徳内から北方の地図を贈られ、高橋景保にはクルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与え見返りとして最新の日本地図を手に入れる。 シーボルトは、来日後まもなくして日本女性、楠本滝と暮らすようになるが、彼女との間に1827年に娘、楠本イネをもうける。この時期、紫陽花の新種として、〔Hydrangea otaksa〕と命名しているが、滝(お滝さん)の名前だと推測される。 1828年、帰国の際、先発した船が難破、積荷が海中に流出、一部が日本の浜に流れ着いた。その積荷の中に幕府禁制であった日本地図が見つかり問題となる。地図返却を拒否したために、シーボルトは出国停止処分を受け、後に国外追放処分となった。 1830年にオランダに帰着したが、日本で収集した日本固有の文学的・民俗学的コレクションの数は5000点以上にのぼる。その他にも哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰っている。 翌1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、オランダ王ウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜される。その年、蘭領東印度陸軍参謀部付となり日本関係の事務を嘱託される。バイエルン王ルートヴィヒ1世 からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る。 1832年にはコレクション展示のための「日本博物館」を開設する。 オランダ政府の後援を受け、日本研究をまとめ、集大成として全7巻の著書『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を刊行した。 日本学の教授としてドイツのボン大学に招かれるがこれを固辞した。 日本の開国を促すべく、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草した。また、後にアメリカ東インド艦隊を率いて日本に来ることになる、ペリーに対して日本の資料を提供するが、はやまった軍事的行動をとらないよう要請している。 1854年には日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が締結され、シーボルトの追放令も解除される。翌1859年、シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となり、収入を得るようになる。 長崎に寄港したプロシア遠征隊をはじめ、ロシア、フランス、オランダなどへ、日本の情報を頻繁に提供する。同時に、博物収集や自然観察なども続け、風俗習慣や政治など日本に関するあらゆる記述を残す。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。 1866年10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。没年70歳であった。 |
プロフィール | |
通称 | シーボルト |
本名 |
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold) |
別名 |
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称号 |
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時代 |
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生誕・生誕地 |
1796年2月17日・神聖ローマ帝国:ヴュルツブルク司教領ヴュルツブルク |
死没 |
1866年10月18日(満70歳没)・バイエルン王国:ミュンヘン |
国籍 |
ドイツ |
言語 |
ドイツ語 |
居住地 |
ドイツ |
学歴 |
ヴュルツブルク大学 |
職業 |
ドイツの医師・博物学者 |
分野 |
〔研究分野〕 |
所属 |
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業績 |
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作品 | |
受賞歴 |
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名言 |
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サイト |
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その他 |
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