留守政景 |
留守政景は、伊達晴宗の三男、伊達政景として誕生しました。 父親である晴宗の政略により、奥州の名族である留守氏の養子となり留守政景と名乗りました。 留守政景は、戦国時代~江戸時代初期の武将であり、留守氏第18代当主となりました。 |
近隣の村岡氏や余目氏の反抗を鎮圧し、兄や甥を補佐して実家である伊達家の勢力拡大に貢献しました。 1567年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったために、所領を没収されてしまいますが、その後の文禄の役で朝鮮での戦いに出陣し、帰国後には正式に伊達家一門に加わりました。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦では、甥、政宗の命により伊達家総大将となり、世にいう〔長谷堂城の戦い〕において、上杉景勝と戦闘中の最上義光の救援に駆けつけたものの、上杉軍を率いる直江兼続と刃を交えることはなく、長谷堂から離れた小白川で傍観を決め込んだという。 後に伊達姓を許され、1604年(慶長9年)には一関2万石を与えられ、1607年(慶長12年)に59歳で死去しました。菩提寺には殉死者4名と共に描かれた、極めて珍しい肖像画が残るとされていますが、当サイトでは、その画像は見つけ出せませんでした。 |