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〔世界の偉人〕

ゴルバチョフ

 

 ゴルバチョフは、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家で、ソ連最後の最高指導者である。ソ連での歴代指導者の中で、ソ連成立後に生まれた唯一の指導者となった。

 1985年3月、ソ連共産党書記長に就任し、ソ連政治経済の抜本改革を目指してペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行した。

ゴルバチョフの肖像・写真 
(出典:wikipedia)

 東欧での民主化革命を支持し冷戦を終結させた。これにより、1990年にはノーベル平和賞を受賞している。

 1991年、「ソ連8月クーデター」を招き、新連邦条約締結に失敗、ソ連共産党の一党独裁体制とソ連邦自体の終結・崩壊を招くこととなる。

 日米欧諸国では、ゴルビーの愛称で親しまれ絶大な人気がある。一方で、旧ソ連諸国やロシアでは、米国に対抗する超大国ソ連を崩壊させたことで、批判されることもある。



レーガンの葬儀に参列するゴルバチョフ 
レーガンの葬儀に参列するゴルバチョフ
(出典:wikipedia)
プーチンと握手をするゴルバチョフ 
プーチンと握手をするゴルバチョフ
(出典:wikipedia)
マルタ会談・ブッシュとゴルバチョフ 
マルタ会談・ブッシュとゴルバチョフ
(出典:wikipedia)
レーガンとゴルバチョフ 
レーガンとゴルバチョフ
(出典:wikipedia)


 ゴルバチョフは、1831年3月2日、ソ連のコルホーズ(農業集団化政策)の農民の子として生まれた。

 14歳のときにはコンバインの運転手として働くが、成績優秀で上級学校で銀メダルを授与される。1950年、19歳のとき、スタヴロポリ市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学する。

 大学生活の学生宿舎で、チェコスロバキアからの留学生、ズデネク・ムリナーシと知り合いになる。ゴルバチョフは、ムリナーシの影響を大きく受けるが、彼は、後に〔プラハの春〕を主導したひとりである。

 1952年10月、ゴルバチョフはソ連共産党に入党する。

 1965年にスタヴロポリ市コムソモール第一書記を皮切りに、多くの地方都市での第一書記などを歴任する。そして、1971年には40歳の若さで党中央委員に選出される。

 以降、多くの重要人物と知遇を得て、1978年には、急死したフョードル・クラコフの後任として農業担当書記に就任する。1979年に政治局入りし、1980年には最年少の政治局員となる。

 アンドロポフが書記長に就任すると、ゴルバチョフはイデオロギー担当書記に登用される。アンドロポフが死去し、チェルネンコが書記長になると、ゴルバチョフは「第二書記」としてチェルネンコを補佐し、改革派としてその名が知られるようになる。

 チェルネンコが死去すると、ゴルバチョフはソ連共産党書記長に就任する。ゴルバチョフを支持したグロムイコをして、ゴルバチョフは〔鉄の歯〕を持つ男だと言わしめた。

 ゴルバチョフは、書記長就任後に「鉄の歯」にふさわしく、対抗するメンバーを解任し、徹底的な人事の刷新を行った。

 書記長就任から8か月後、1985年11月、ジュネーヴで、アメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガンと米ソ首脳会談を行い、核軍縮交渉の加速、相互訪問などをの共同声明を発表した。

 1986年4月には、再建を意味するペレストロイカを提唱し、ソ連体制の改革に着手する。そして、4月に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故にかんがみグラスノスチ(情報公開)を推進する。

 ペレストロイカは、徐々に単なる経済体制の改革から、硬直化したソ連体制全体の抜本的改革・革命へ様相を変え、政治改革、ソ連の歴史の見直しへと進行した。

 ゴルバチョフは、自分自身をあくまでも共産主義者としてきたが、「多元主義」「新思考」「欧州共通の家」「新世界秩序」などのような新たな価値感を目指して、国内政治や外交政策を大胆に転換していった。

 1986年7月、ゴルバチョフはウラジオストク演説でアフガニスタン撤退と中ソ関係改善を表明した。

 10月には米ソ首脳会談が行われ、アメリカのレーガン大統領と戦略核兵力の、中距離核戦力の全廃について記論を重ねた。そして、1987年12月には中距離核戦力全廃条約を結んだ。

 1988年9月、ゴルバチョフが最高会議幹部会議長となり国家元首に就任すると、12月、最高会議を改組し、人民代議員大会を設置する。

 この頃より彼への求心力が低下し、1990年3月、複数政党制と強力な大統領制を導入したが、権力基盤は衰弱をたどる。

 副大統領にする予定で考えていた、シュワルナゼが「独裁が迫っている」と守旧派に対する危機を訴えて外務大臣を辞任して世界を震撼させたため、ゴルバチョフは政治局員のゲンナジー・ヤナーエフを副大統領に指名した。

 この頃、一時失脚していたボリス・エリツィンが人民代議員として復活し、ロシア共和国の大統領となり、さらにソ連共産党からの離党を宣言して、ゴルバチョフの地位を脅かす。

 国内保守派への問題をかかえながらも、ゴルバチョフ政権によるソ連外交の政策転換は続けられた。もはや、東ヨーロッパ諸国への強権的な民主化運動への弾圧は起こりえなくなっていた。

 1990年には、東ドイツの西ドイツへの統合が実現する。冷戦が終結し、東欧革命によってソ連は東欧での覇権を失い、軍部や軍産複合体は、各国から撤退を強いられる。

 極東でも緊張緩和が進み、1989年5月には、中華人民共和国を訪問、長年の中ソ対立に終止符を打った。


偉人のプロフィール

プロフィール
通称 ゴルバチョフ
本名

ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ
(ロシア語: Михаил Сергеевич Горбачёв)
(ミハイール・スィルギェーイェヴィチュ・ガルバチョーフ)
(ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev、1931年3月2日 - )

別名

ゴルビー・鉄の歯

称号

時代

20世紀

生誕・生誕地

1931年3月2日・ソビエト連邦:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、スタヴロポリ地方、プリヴォリノエ村

死没

国籍

ソヴィエト連邦・ロシア

言語

ロシア語

居住地

ソ連・ロシア

学歴

〔学歴〕

・モスクワ大学法学部
・スタヴロポリ農業大学(通信課程)

職業

政治家

分野

〔ソヴィエト連邦改革〕

・ペレストロイカ(改革)断行
・グラスノスチ(情報公開)断行

〔ソヴィエト連邦崩壊〕

・ソヴィエト連邦の崩壊
・米ソ冷戦の終結

所属

〔政党〕

・ソビエト連邦共産党(1950年 - 1991年)

・ロシア社会民主党(2001年 - 2004年)

・社会民主同盟(2007年 - )

・ロシア独立民主党(2008年9月 - )

業績

〔功績〕

・ペレストロイカ(改革)断行

・グラスノスチ(情報公開)断行

〔ソヴィエト連邦での指導者歴〕

・第8代最高指導者(1985.3.11~1991.12.25)

・初代大統領(1990.3.15~1991年12月25日)

・初代最高会議議長(1989.5.25~1990.3.15)

・第11代最高会議幹部会議長(1988.10.1~1989.5.25)

・共産党:第5代中央委員会書記長(1985.3.11~1991.8.24)

作品

受賞歴

〔主な受賞歴〕

・労働記章受章(1949年)
・ノーベル平和賞受賞(1990年)
・ハーヴェイ賞受賞(1992年)

〔栄誉〕

・創価大学名誉博士(1993年)
・日本大学名誉博士(2003年)
・明治大学名誉博士(2009年)
・聖徒アンドレイ・ペルボズバンニー勲章(2011年)

名言

サイト

その他


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