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〔ひ〕で始まる日本の偉人 |
〔ひ〕で始まる日本の偉人の人数は結構多く、次のような人たちがいます。 ・広中平祐 ・東山魁夷 ・卑弥呼 ・広瀬宰平 ・広瀬武夫 ・日野富子 ・樋口一葉 ・菱川師宣 ・平櫛田中 ・平賀源内 東山魁夷は、日本の画家・著述家で、昭和期代表の日本画家の一人です。文化勲章受章者であり、生前に多くの日展出品作などを東京国立近代美術館と長野県に寄贈しました。長野県では、東山魁夷館を設置し作品を常設展示しています。代表作に、『残照』『道』『光昏』『青響』『曙』などがあります。 |
〔広瀬宰平〕 広瀬宰平は、文政11年(1828年)近江国野洲郡八夫村出身の明治期の大阪財界の大立者であり、初代住友総代理人である。広瀬は幼名を幼名駒之助と言ったが明治維新後宰平と改名した。 11歳のとき、別子銅山に奉公にあがり、安政2年(1855年)元住友江戸店の支配方の伊予国新居郡金子村久保田の広瀬義右衛門の養子となる。そして38歳のとき、別子銅山の総支配人となる。明治維新時、別子銅山を接収しようとした新政府に対して経営を引き続き任せるよう説得し認めさせた。技術の近代化を達成し住友の基盤を確実なものとした。広瀬の独裁体制に反対する内部勢力もあり、明治27年(1894年)総理人を辞任した。 |
〔広瀬武夫〕 広瀬武夫は、明治元年(1868年)豊後国竹田で出生した、日本の海軍軍人である。日露戦争時に有名なエピソードがあり、戦前は軍神として神格化される存在であった。 成人すると一時期は小学校教師を務めたが、明治18年(1885年)退職し、攻玉社を経て海軍兵学校入校する。卒業後、明治23年まで軍艦「比叡」に乗船し、少尉に任官される。明治27年(1894年)の日清戦争に従軍し翌年には大尉に昇進する。明治30年にはロシアへ留学して、旅順港などの軍事施設も見学、その後はロシア駐在武官となり、明治33年には少佐に昇進する。明治37年(1904年)からの日露戦争では旅順港閉塞作戦に参戦する。 第2回の閉塞作戦時、閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受け撤退しようとした。しかし、部下の杉野孫七上等兵曹がいないことに気づき、広瀬は杉野を助けようと船内を探索したが見つからず、救命ボートに移乗せんとした際、ロシア軍砲撃を受け戦死した。36歳の壮絶な死であった。 |
〔広中平祐〕 広中平祐は、昭和6年(1931年)山口県玖珂郡由宇町生まれの日本の数学者である。日本人で2人目のフィールズ賞受賞者として知られる。フィールズ賞は、数学分野の有名な賞であり、数学のノーベル賞と称される。 専門分野は代数幾何学で、フィールズ賞受賞対象となった研究は「標数0の体上の代数多様体の特異点の解消および解析多様体の特異点の解消」というものであった。ハーバード大学元教授、京都大学数理解析研究所元所長であり日本学士院会員である。 |
〔土方歳三〕 幕末期の幕臣・新選組副長。新選組時代、局長近藤勇の補佐役として数々の事件で武名を轟かせる。新選組では鬼の副長と称された。旧幕軍側指揮官の一人として転戦し、戊辰戦争最後の戦場、箱館五稜郭防衛戦にて戦死。 |
〔東山魁夷〕 東山魁夷は、明治41年(1908年)横浜市出生の日本の画家であり著述家である。昭和を代表する日本画家の一人とされ、文化勲章受章者、千葉県市川市名誉市民である。 兵庫県立第二神戸中学校在学中から画家を志し、東京美術学校日本画科へ進学し、結城素明に師事する。1929年、在学中に第10回帝展に「山国の秋」で初入選を果たす。戦後の1947年、第3回日展で『残照』が特選となり、以降は風景を題材にした名作を残すようになる。 彼の主な作品には、『残照』『道』『光昏』『青響』『曙』『年暮る』『花明り』『白馬の森』『濤声』『山雲』『黄山暁雲』『朝明けの潮』『夕星』などがある。 |
〔日野富子〕 日野富子は、永享12年(1440年)山城(京都府)生まれの室町時代後期から戦国時代前期の女性であり、室町幕府8代将軍足利義政の正室である。 富子は、室町幕府足利将軍家と姻戚関係の日野家の出身で、16歳のとき義正の正室となる。何人かの子供を産むが、長い間、男子に恵まれることがなかった。そのため、義正は寛正5年(1464年)に仏門にいた実弟の義視を還俗させ、将軍後継者とする。 しかし、翌年に富子は義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。当初は軍事衝突はなかったが、やがて衝突するようになる。世にいう応仁の乱である。これは10年ほど続き、戦国時代の前触れとなった。 |
〔卑弥呼〕 中国の史書『魏志倭人伝』などに記されている倭国の王(女王)であり、都を邪馬台国においたとされる。封号は親魏倭王。後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。邪馬台国の存在地には諸説あり、詳しいことは現在でもわかっていない。 |
〔樋口一葉〕 樋口一葉は、明治5年(1872年)東京生まれの小説家である。中島歌子に歌や古典を学び、半井桃水に小説を学んだ。 元々、樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原の長百姓であったが、祖父は俳諧や狂歌、漢詩などに親しむ家風の家であった。父親も農業より学問を好む人物であった。このような環境下で一葉は、幼少時代から読書を好み育った。7歳の時には『南総里見八犬伝』を読破した。父親は娘の文才を見抜き和歌を習わせたという。 樋口一葉の代表作には『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』『一葉日記』などがある。 |
〔菱川師宣〕 菱川師宣は、元和4年(1618年)安房国平郡保田本郷で出生した、近世日本の画家である。江戸初期に活動した浮世絵師の一人であり、しかも、浮世絵を確立した人物、最初の浮世絵師である。しばしば「浮世絵の祖」と称される。 師宣は、それ以前には絵入本の単なる挿絵的存在にすぎなかった浮世絵を、本格的な鑑賞にたえる芸術作品、絵画作品に高める役割を果たした。初期には無記名で作品を描いていたが徐々に人気がでて、名前を明らかにするようになる。 彼の代表的作品には、『見返り美人図』『歌舞伎図屏風』『浮世人物図巻』『大江山鬼退治絵巻』『虫籠美人図』『見立石山寺紫式部図』『遊里風俗図』『江戸風俗図巻』など多数がある。 |
〔平賀源内〕 平賀源内は、享保13年(1728年)讃岐国寒川郡志度浦出生の江戸時代中頃に活躍した本草学者であり地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家である。 幼少時より多才であり、儒学を学び、俳諧なども行うほか、宝暦2年(1752年)頃に長崎に遊学して、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。2度目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学んだという。 安永5年(1776年)には、長崎でエレキテル(静電気発生機)を入手し、修理して復元した。 |
〔平櫛田中〕 平櫛田中は、明治5年(1872年)岡山県後月郡の田中家に生まれた、日本の彫刻家である。井原市名誉市民、福山市名誉市民、小平市名誉市民となっている。 明治15年(1882年)に現在の福山市今津町の平櫛家の養子になる。明治26年(1893年)に大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし木彫を修行する。明治末期~大正初期に東京美術学校を創立した岡倉天心に師事する。昭和12年(1937年)には帝国芸術院会員となる。昭和19年以降、現在の東京藝術大学の教授として戦後も教壇に立つ。 平櫛田中の主な作品には、『鏡獅子』『尋牛』『気楽坊』『郭子儀』『東方朔』『かがみ』『岡倉天心胸像』『福は内』『良寛上人 』『薬師如来』『玉錦』『釣隠』『新春』『雲林先生』など多数がある。 |
〔平山郁夫〕 平山郁夫は、昭和5年(1930年)広島県豊田郡瀬戸田町生まれの日本画家であり教育者である。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者である。 旧制広島修道中学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下に被爆した。戦後、現在の東京藝術大学に入学し前田青邨に師事する。1959年ころ三蔵法師を主題とする絵画『仏教伝来』を描き、院展に入選する。その後もシルクロードの遺跡などを訪ねた絵画を残している。 主な作品には、『仏教伝来』や『入涅槃幻想』『大唐西域壁画』などがあり、多数の著書がある。 |
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