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アマゾン〔世界の偉人〕〔ろ〕で始まる世界の偉人ロマン・ロラン |
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ロマン・ロランは、フランス中部・ニエーヴル県・クラムシー出身の理想主義的ヒューマニズム作家である。 (出典:ウイキペディア)
数多くの優れた文学作品を残したことから、1916年、50歳の時、ノーベル文学賞を受賞している。 |
ルイ大王高等中学校卒業後にフランスの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)で哲学と歴史を学ぶが、文学や美術・音楽を愛しピアノが得意だった。 高等師範学校を卒業後、歴史の教授資格試験に合格し、ローマのフランス学院に留学し、哲学者ニーチェやワーグナーを知るドイツの女流作家、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークと逢い、広く国際関係に開眼した。 その後、結婚や離婚など個人的な出来事も経験し、ヨーロッパ各地を旅行し、シュヴァイツァー、ヴェルハーレン、R.シュトラウス、ツヴァイク、リルケ、シンクレアらを知ることとなる。 1914年8月に勃発した第一次世界戦争時、滞在中のスイスから仏独両国へ「戦闘中止」を叫び続けた。 これが、祖国への反抗と受け取られ、帰国できない状態に陥ったが、一方で、アルベルト・アインシュタインやヘルマン・ヘッセ、エレン・ケイらと親しくなる。 ロシア革命に共感したことで、後にソ連邦建設科学アカデミーの名誉会員に選ばれてもいる。 その後の、世界の歴史的変化に対し、ファシストの暴行や、日本軍による満州占領を非難した。1932年には、アムステルダムの「反戦全世界大会」をバルビュスとともに主導した。 |
プロフィール | |
通称 | ロマン・ロラン |
本名 |
ロマン・ロラン(Romain Rolland) |
別名 |
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称号 |
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時代 |
19世紀後半~20世紀前半 |
生誕・生誕地 |
1866年1月29日・フランス:クラムシー(Clamecy) |
死没 |
1944年12月30日・フランス:ヴェズレー |
国籍 |
フランス |
言語 |
フランス語 |
居住地 |
フランス |
学歴 |
・エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校) |
職業 |
作家 |
分野 |
小説 |
所属 |
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業績 |
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処女作 |
〔デビュー作〕 |
作品 |
〔代表作〕 |
受賞歴 |
〔主な受賞歴〕 |
名言 |
下の〔偉人の名言〕のコーナーを参照ください。 |
サイト |
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その他 |
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ロマン・ロランの残した名言 | |
理想 |
・ピラミッドは頂上から作られはしない。 ・理想主義のない現実主義は無意味である。現実主義のない理想主義は無血液である。 ・他人の上に太陽の光を注がんためには、自分のうちにそれをもっていなければいけない。 ・真理! 眼をしっかり開いて、生命の強烈な息吹を全身の毛穴から吸い込み、物事をあるがままに見、不幸をまともに見つめ、そして笑うのである! ・他人の後ろから行くものは、決して前進しているのではない。 ・私は、自らの最後の日まで、私自身の人生をさらに広く、さらに高くすることに、挑み行くのだ。 ・今日の新聞・雑誌は嘘の巣窟だ。そして読者の十中八九までが、嘘に丸めこまれる可能性がある。 ・旧道徳は危険を回避することを命じた。だが新道徳は、危険をおかさないものは何ものをも得ないと知ることだ。 ・戦うことが、わが健康法なり。 ・魂の致命的な敵は、毎日の消耗である。 |
富 |
・富の中でもなお健全な心情を保ちえる女性は、百万長者が天才を有すると同じく一つの奇跡である。 ・民主主義というのは、民衆にとって代わって、その厳粛な名目のもとに、若干の布教者たちの利益のために民衆の毛を刈る技法です。 ・私は世界に二つの宝を持っていた。私の友と私の魂と。 ・知識人は政治家を軽蔑し、政治家は知識人を軽蔑する。 ・決して誤ることのないのは、何事もなさない者ばかりである。 |
芸術 |
・まさしく音楽こそ、精神の生活を感覚の生活へと媒介してくれるものです。 ・大半の聴衆が興味を抱くのは、音楽ではなく音楽家である。 |
恋愛 |
・恋は決闘です。もし右を見たり左を見たりしていたら敗北です。 ・愛は信頼の行為である。神が存在するかしないかはどうでもよい。信ずるから信ずるのである。愛するから愛するのである。たいした理由はない。 ・少しのきまじめさは恋愛においては結構だ。しかしあまり真面目すぎては困る。それは重荷であり、快楽でなくなる。 |
幸福 |
・いつまでも続く不幸というものはない。じっと我慢するか、勇気を出して追い払うかのいずれかである。 ・誰でも幸福について語るが、それを知っているものは少ない。 ・幸福は世界のリズムの一瞬間であり、生の振子が往来する両極の一つである。 ・真理への愛のみが、我々を決して裏切ることのない唯一の愛である。 |