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〔日本の偉人〕

〔や〕で始まる日本の偉人

山本五十六

(やまもと いそろく)


あ行か行さ行た行な行
は行ま行や行ら行わ行

やゆよ

〔や〕で始まる日本の偉人

やなせたかし 山岡鉄舟
山下清 山中伸弥
山田耕筰 山田風太郎
山田方谷 山本五十六
山縣有朋 八木秀次
柳田国男 山口淑子

〔山本五十六:珠玉の名言〕

 やって見せ 言って聞かせて させてみせ 褒めてやらねば 人は動かじ。

 劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである。
(ロンドン軍縮会議で日本に不利となる軍縮条約が調印された際の発言)


 日本の海軍軍人で第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生である。

 最終階級は元帥海軍大将。1943年、前線視察の際、日本軍の暗号を分析・解読した米軍機により攻撃されブーゲンビル島上空で戦死した。

 米軍が解読した暗号電報は戦艦「武蔵」から発信された電文であった。

山本五十六の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)

 山本五十六は、1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在を受命し、ハーバード大学に留学した。アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行機産業とそのサプライチェーンに強い印象を受け、日米の生産や流通の圧倒的な差に衝撃を受ける。

 このアメリカ滞在時に、海軍航空開発の第一人者であった、駐米海軍武官の上田良武大佐より受けた指導と視察、研究成果が、後に真珠湾攻撃で活躍することになる、航空機戦力に着目するきっかけになったとされる。

 1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となって、再びアメリカに滞在することになったが、再びアメリカの石油や自動車、航空機、船舶などの生産や流通体制を視察、研究し、この経験が後の対米戦の戦略立案に大きな影響を与えた。



 1928年(昭和3年)3月に帰国後、軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務めた。水雷学校で講義で将来の海軍は航空主兵となること、対米作戦ではハワイを攻撃すべしと発言した。

 山本は、当時の欧米事情に詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していたが、もしも戦うことになるならと、早い段階から航空機戦力に着目し海軍航空隊設立に尽力し準備・訓練もした。

 日米間の国力の圧倒的差を知る山本は、日米開戦となるなら「短期決戦・早期和平」しかないと冷静に分析していた。この点ではその時代に傑出した名将であった。海外においても広く賞賛されている。

 かくして、山本は大日本帝国海軍第26、27代連合艦隊司令長官となり、昭和16年12月8日、アメリカ真珠湾攻撃を敢行し太平洋戦争が始まった。真珠湾奇襲攻撃は大成功だったが、続くミッドウエー海戦で大敗すると、日本は徐々に各地の戦闘でも敗色が濃くなる。

 1943年(昭和17年)4月4日、山本は、前線将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に行く計画を立てた。

 この電文は、戦艦武蔵から発信されたが、アメリカ海軍情報局は暗号を解読し、事前に情報を知り、山本の出現を待ち受けた。山本は、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に撃墜され墜落して戦死した。この事件は後に「海軍甲事件」と呼称された。

 山本の遺体は、ブーゲンビル島で確認され検死されたが、山本が機上で被弾し即死したのか墜落後しばらくは生存していたのかは不明である。長官は無事脱出したが、捕虜になることを恐れて拳銃で自決したとの証言もある。山本に対し大勲位、功一級、正三位と元帥の称号が贈られた。


偉人のプロフィール

プロフィール
通称
本名
別名
称号
時代
生誕
死没
国籍 日本国
言語 日本語
居住地
学歴
職業
分野
所属
業績
作品
受賞歴
名言
サイト
その他

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