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アマゾン〔世界の偉人〕〔よ〕で始まる世界の偉人ヨハンシュトラウス |
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1844年にはヨハンは修行を全うし、いよいよデビューの準備を始めた。これはある意味父親への挑戦であった。自分と同名の息子の挑戦に父親は危機感を抱き、あらゆる妨害を企てるのだった。 息子のデビューを妨害せんと、ウィーンにある飲食店に圧力をかけ、配下の楽団員が息子に応援することを固く禁じた。これに対抗して、ヨハンもまだ父親の影響を受けていない飲食店にアピールしたり、小規模な新聞社などに契約を結んで記事を書かせたりした。 ヨハンは、自ら発掘した音楽家による独自の楽団を作り、10月15日、遂にシェーンブルン宮殿近くのカジノ・ドームマイヤーにおいて、指揮者としてデビューコンサートを開いた。 彼はこの日のために、『初舞台のカドリーユ』、『どうぞごひいきに』などデビューを意識した新曲を準備し演奏した。ヨハンは、指揮者・ヴァイオリン奏者・作曲家としての才能を誇らかに証明したのである。 そして、10月19日付の『Der Wanderer』誌上には、「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!」という有名な言葉が踊った。 コンサートは大成功だったが、締めくくりの曲目は父親の代表作『ローレライ=ラインの調べ』であった。父子は互いにライバル作曲家となり競争することとなった。しかし、長い間の対立関係はあったが、やがて二人は和解し、たがいに協力するようになる。 |
デビューしたてのヨハン・シュトラウス
(出典:ウイキペディア) |
三番目の妻アデーレ
(出典:ウイキペディア) |
デビューコンサートの広告
(出典:ウイキペディア) |
ボストン平和記念祭
(出典:ウイキペディア) |
1848年、ヨハンの東欧演奏旅行の最中、1848年革命が勃発する。ヨハンは直ちに帰国し、ウィーンの革命のなりゆきを見守り、市民側が優勢とみると、革命支持者としてウィーンへ戻り、『革命行進曲』『学生行進曲』『自由の歌』などを作曲する。 果ては、当時のオーストリアでは禁じられていたフランスの革命歌『ラ・マルセイエーズ』を演奏してみせた。これにより注意人物となってしまい、警察で厳しく尋問され、「もう二度と、このような馬鹿なまねはいたしません。」と陳謝したという。 1849年に父親が他界すると、父親の楽団を自分の楽団に吸収し、父子に分散していた仕事も一本化されて超多忙を極める。一晩に舞踏場やレストランを5軒以上も回って演奏するほどだったという。 宮廷との関係が思わしくなかったヨハンは、幾多の顛末の末、1852年の謝肉祭の頃からようやく宮廷のダンスの指揮を許される。 ヨハンの多忙ぶりを助けるために、母親は次男のヨーゼフに兄の代役として指揮者を務めさせることを思いつき実行した。末弟のエドゥアルトも音楽家の道に進ませる。こうして弟たちも音楽家人生を歩むこととなる。 ヨハンの音楽活動はオーストリアに留まらず、ロシアにまで拡大した。そこでは莫大な金銭を手にすることができた。 |
1870年には母や弟ヨーゼフ、叔母までもが亡くなり、精神的に落ち込み、作曲意欲を失ってしまった。そんな彼に妻や友人が、オペレッタの作曲を熱烈に勧めた。彼は、ようやくオペレッタを作ることを決意する。 最初のオペレッタ『インディゴと40人の盗賊』は、最高ではないまでもそれなりに成功を収めた。これ以降、ヨハンはオペレッタに全力を注ぐようになる。 1894年には、デビューから50年が経ち、10月15日前後にヨハンの音楽家生活50周年のための一連の祝賀行事が盛大に催された。 ヨハンは多くの祝賀行事のなかで「充分すぎるよ。私はこれに見合うことはしていない。充分すぎないかい?」という言葉を残したという。 1899年5月下旬、ヨハンはひどい悪寒に襲われ、数日後には寝込んでしまう。重度の肺炎に罹患していた。書きかけのバレエを中断する悔しさの後に、幻覚症状に陥る。 6月3日、ずっと看病を続けてきた3番目の妻アデーレから「あなた、お疲れでしょう。少しお休みになったら…」と言われると、ヨハンは最後の言葉を「そうだね。どっちみちそうなるだろう…」と答え永眠した。 |