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〔世界の偉人

リンドバーグ


 リンドバーグは、アメリカ合衆国の飛行家です。

 1927年、単葉単発単座プロペラ機 〔スピリット・オブ・セントルイス号〕 で、ニューヨーク ~ パリ間を飛び、世界で初めての大西洋単独無着陸飛行に成功しました。

 1931年には、北太平洋横断飛行にも成功しています。

 リンドバークは、スウェーデン移民の息子としてミシガン州デトロイト市で生まれ、ミネソタ州リトルフォールズで成長しました。父親は、弁護士、共和党国会議員でした。

 彼は、幼少時から機械への関心を持ち、1922年にはネブラスカ航空機でパイロットと整備士の訓練に参加します。その後、カーチス・ライト社のJN-4機を中古で購入し、曲芸飛行士になります。これを操縦し〔命知らずの空中軽業師〕と呼ばれました。

 1924年、アメリカ陸軍航空隊で飛行士訓練を受け、一番の成績で訓練を終えると、ライン・セントルイスの民間航空便パイロットとして働くようになりました。

 そして、運命の日、1927年5月20日、現地時刻5時52分、愛機〔スピリット・オブ・セントルイス号〕に搭乗して、ニューヨーク・ロングアイランドのルーズベルト飛行場を飛び立ちました。

 5月21日22時21分(到着時の現地時刻)、パリのル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に世界で初めて成功する快挙を成し遂げました。飛行距離5,810km、飛行時間は33時間29分30秒の長旅でした。

 この大成功により、ニューヨーク~パリ間の最初の無着陸飛行者に与えられるオルティーグ賞と賞金25,000ドルを獲得しました。それ以上に歴史の残る世界的名声を得たのでした。

 その際、ル・ブルジェ空港に押し寄せた観衆の数は、100万人ともいわれ、空港に入りきらなかったほどだと伝えられています。

 リンドバーク夫妻は、1931年に北太平洋航路調査のために、カナダ、アラスカ経由中国までロッキード社の水上飛行機シリウス号で飛行したが、その途上で日本の国後島、根室市、霞ヶ浦、大阪、福岡に立ち寄っています。

 現在、この飛行機、スピリット・オブ・セントルイス号は、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されています。


この偉人のプロフィール 〔リンドバーグ〕のプロフィール。
〔リンドバーグ〕

リンドバーグの肖像・写真
(出典:ウイキペディア)
プロフィール
〔通称名〕 リンドバーグ
〔本名〕 チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh)
〔別名・ペンネーム〕
〔称号〕
〔時代〕
〔生誕〕 1902年2月4日
〔死没〕 1974年8月26日(満72歳没)
〔没地〕アメリカ合衆国:ハワイ州 キパフル
〔墓地〕アメリカ合衆国、ハワイ州キパフル、パラパラ・ホオマウ教会墓地
〔国籍〕 アメリカ合衆国
〔言語〕 英語
〔出生国:出身地〕 アメリカ合衆国:ミシガン州 デトロイト
〔居住国:居住地〕 アメリカ合衆国
〔出身校・最終学歴〕
〔職業〕 飛行士
〔ジャンル・主題〕 大陸間飛行、曲芸飛行
〔所属・党・派〕
〔活動・業績〕 太平洋横断単独飛行
〔処女作〕
〔代表作〕 自伝『The Spirit of St. Louis』
〔受賞歴〕 ハーモン・トロフィー
名誉勲章
議会名誉黄金勲章受賞
ピュリッツァー賞(1954年)

〔残した言葉・名言〕  パリ着陸の際、最初に発した言葉は

 『翼よ、あれがパリの灯りだ!』

とされています。

 しかし、現実には彼は自分が到着したのがパリだということも分からなかったといいます。実際に発した言葉は、

 『誰か英語を話せる人はいませんか?』と尋ね、更に英語の話せる人に

 『ここはパリですが?』

と尋ねたとされています。もう一つ、『トイレはどこですか?』と言ったとされる現実的な説も残っています。

 日本では有名な『翼よ、あれがパリの灯りだ!』という言葉は、リンドバーク自身の自伝『The Spirit of St. Louis』の訳者が作った言葉であり、他国ではこのような名セリフは存在しません。

〔公式サイト〕
〔その他の情報〕 〔著名な点〕:初の大西洋単独無着陸飛行に成功

〔有名な飛行〕:大西洋単独無着陸飛行(1927年)

〔子供の誘拐〕

 リンドバーグは、1929年に駐メキシコ大使ドワイト・モローの次女アンと結婚し8人の子供をもうけた。1932年3月1日に長男ジュニアが自宅から誘拐されるリンドバーグ愛児誘拐事件が発生した。結局、子供は助からなかった。