エドモンド・ヒラリー |
エドモンド・ヒラリーは、ニュージーランド・オークランド出身の登山家で冒険家、養蜂家でもあります。 1953年5月29日午前11時30分、テンジン・ノルゲイとともに人類初となるエベレスト山頂到達に成功しました。 ヒラリーは幼少時には虚弱児で内向的な子供だったといわれています。 |
しかし、養蜂業を営む父親に手伝い、蜂の巣箱を運ぶ仕事などで足腰が丈夫になり、心肺機能も鍛えられ、高校時代には195㎝にもなる大きな体格に成長しました。 |
エドモンド・ヒラリー |
エドモンド・ヒラリーは、ニュージーランド・オークランド出身の登山家で冒険家、養蜂家でもあります。 1953年5月29日午前11時30分、テンジン・ノルゲイとともに人類初となるエベレスト山頂到達に成功しました。 ヒラリーは幼少時には虚弱児で内向的な子供だったといわれています。 |
しかし、養蜂業を営む父親に手伝い、蜂の巣箱を運ぶ仕事などで足腰が丈夫になり、心肺機能も鍛えられ、高校時代には195㎝にもなる大きな体格に成長しました。 |
小学校卒業後には、オークランドで名門とされる、オークランド・グラマー・スクールへ進学します。そして、16歳のとき、高校の旅行で、ルアペフ山に登頂したことで登山の素晴らしさに魅了され登山家の道を歩み始めました。20歳の時には、オリヴィア山(1933m)の登頂に成功しています。 オークランド大学に進学し数学や理学を学び、エンジニアを目指しますが、2年で中退して養蜂業に専念します。 第二次世界大戦時代には、王立ニュージーランド空軍(RNZAF)に所属し、飛行隊航空士として従軍します。 1951年、ニュージーランド・ガルワール・ヒマラヤ探検隊が結成され、そのメンバーに選出されます。更に同年、英国エベレスト偵察探検メンバーにもなります。 その時代、中国に支配された影響でチベット方面からのエベレスト登頂は不可能で、ネパール側から登頂を目指すのですが、ネパール政府は、年に1組だけしか入山許可を発行しませんでした。 1952年にスイス・エベレスト探検隊が結成され、登頂に挑みますが、山頂からわずか240mの地点に到達したところで、天候不良のため登頂を断念し下山しています。 |
1953年には、英国の威信をかけた、英国・エベレスト探検隊が結成されます。英国人登山家11名、ニュージーランド人登山家2名、ネパール人登山家2名、シェルパ20名、ポーター362人、総勢400名におよぶ大登山隊です。 イギリス陸軍大佐、ジョン・ハントが隊長となり、ヒラリーはジョージ・ロウとともにニュージーランド登山家として加わりました。更に、ネパールからノルゲイとアンヌルが選出されました。 英国隊は1953年3月にベースキャンプを設営します。そして、第一次アタック隊に指名された、エヴァンズとパートナーがアタックに挑むも、頂上からわずか91mの地点で、エヴァンズの酸素ボンベが不調となり登頂を断念します。 5月28日、ヒラリーとノルゲイのペアは第2次アタック隊に指名され、ロウ他2名のシェルパの支援を得て最終キャンプを設置します。そして、翌29日早朝よりアタックを開始し、同日午前11時30分に人類初のエベレスト登頂に成功しました。この偉業は全世界に報道されました。イギリス国王エリザベス2世より登山隊37名に戴冠メダルが授与されました。 その後のヒラリーは、英国南極横断遠征隊に参加、1958年、トラクターで南極点に到達します。1985年には、ニール・アームストロングと共に雪上機で北極に到達します。 ヒラリーは、2008年1月11日、心臓発作により88歳の生涯を閉じました。 |
◆〔エドモンド・ヒラリー〕のプロフィール。 |