両親の思想的確執もあって、主に母親に育てられ、コルシカ島やエルバ島、パリ、ナポリ、マドリードなどを転々と移動して暮らしました。
1812年以降、母と次兄らとパリに住むが、その頃にはナポレオンの帝政時代は終焉を告げ、父親はスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長でしかない状態となります。彼は寄宿学校で暮らしながら、ルイ・ル・グラン高等中学[9]にも通いました。
父親は彼を軍人に育てたいと思っていましたが、彼自身は詩を書くことに夢中でした。17歳のとき、アカデミー・フランセーズでの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌を発行するほどでした。
母親は1821年6月に他界し、ヴィクトルは、1821年10月12日、幼馴染のアデール・フシェと結婚します。翌1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえるようになり、若干20歳にしてロマン派の旗手としての活躍を始めます。そして、1825年2月29日、23歳の若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を授与されます。
やがて、彼は少年時代には疎遠だった父親とも親密になり、ナポレオンを理解するようにもなっていきます。また、聖別式でシェイクスピアの詩を耳にしたことが切っ掛けで、シェイクスピアを尊敬するようになります。
1819年以降、数多くの詩作が賞に輝くなどしてルイ18世から下賜金や年金を受けるようになります。
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1829年には代表作のひとつ戯曲『エルナニ』を執筆公演する。これがロマン派と古典派との対立を招くが、この作品はロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけとなり、公演も大成功を収めます。
彼は裕福な邸宅に住むようになるが、妻を小説家のサント・ブーブに寝取られて悩んだり、自らも愛人ができたりするが、創作には情熱を燃やし続けます。
彼は、1843年から1852年までのほぼ10年間、ひとつの作品も発表していなかったが、その間にフランス文学史上屈指の名作とされる『レ・ミゼラブル(あゝ無情)』を執筆したのだった。
ユーゴーは政治家としても活躍するが、ナポレオンと対立し、弾圧されるようになり、1851年12月11日、ベルギーへと亡命、以後19年間亡命生活を余儀なくされ、ナポレオン批判を開始しました。
1870年に勃発した、フランスとプロイセン王国との戦争〔普仏戦争〕でフランスは大敗し、ナポレオン3世が失脚します。ユーゴーは19年ぶりにフランスに帰国し、英雄として迎えられます。その後も執筆活動は続きました。
1885年5月22日、パリで死去。享年83歳。文豪としてパンテオンへと埋葬されました。
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