フランク永井 |
フランク永井は、独特の低音の魅力で視聴者を魅惑した、昭和中期を代表するムード歌謡歌手です。 当時の歌謡は、流行歌と呼ばれた時代でしたが、フランク永井は、当時の歌謡界に極めて大きな足跡を残しました。 彼に魅了された隠れファンは、今なお多数存在し、カラオケでは必ず誰かが歌うほどです。 |
フランク永井は、幼少時に父親を亡くしましたが、裕福な母親のもとで育てられました。当時、母親は映画館を経営していたとのことで、彼は小さい頃から歌手への強い憧れを抱いていたといわれています。 戦後の混乱期がまだ終わらない時代、1951年(昭和26年)頃、彼は上京しアメリカ進駐軍キャンプ地でトレーラーの運転手などしながら、持ち前の歌の上手さから、アメリカ軍のクラブ歌手として小遣い稼ぎをしていました。 彼は、数多くののど自慢大会で優勝し「のど自慢荒し」の異名をとるほどでした。1955年になると、日本テレビの「素人のど自慢」年間ベストワンを獲得したことで、ビクターと専属契約することになり、その9月に『恋人よ我に帰れ』で歌手デビューを果たしました。 初期にはジャズを歌うものの特別なヒットはなく、先輩歌手のディック・ミネや作曲家の吉田正との出会いを得て、流行歌・歌謡曲へと転向することとなります。そして、1957年、運命の曲『有楽町であいましょう』を歌って、空前の大ヒットを飛ばしました。 それに続いて『東京午前三時』や『夜霧の第二国道』などもヒットし、大歌手として成長します。1959年には、クラブで歌っていた松尾和子を見出し、二人のデュエットソング『東京ナイト・クラブ』を発表して、これまた空前の大ヒットを飛ばしたのでした。この曲は、歌謡史に残る名曲であり、2000年代に至ってもデュエット曲の定番として人気を誇っています。 その後も次のような多くの大ヒット曲を残し、多数の賞を受賞したり、NHK紅白歌合戦にも通算26回出場を果たしましたが、2008年10月27日、肺炎のため逝去しました。 |
『西銀座駅前』 | 『東京午前三時』 | 『有楽町で逢いましょう』 | |
『君恋し』 | 『羽田発7時50分』 | 『こいさんのラブ・コール』 | |
『おまえに』 | 『霧子のタンゴ』 | 『夜霧に消えたチャコ』 | |
『国道18号線』 | 『夜霧の第二国道』 | 『公園の手品師』 | |
『東京カチート』 | 『俺は淋しいんだ』 | 『東京ナイト・クラブ』 |