東海林太郎 |
東海林太郎は、戦前を代表する日本の歌手です。 彼はロイド眼鏡に燕尾服といういでたちで、直立不動の姿勢で歌を歌う独特な歌唱スタイルをしていたことで知られています。 1965年には、紫綬褒章受章を受賞しています。 |
1908年、両親が満州へ行き東海林太郎は日本で祖母と暮らします。秋田中学時代にヴァイオリンに憧れるようになり音楽への夢を抱きます。 学業を終了後の1923年には南満州鉄道株式会社に入社するも、マルクス主義に傾注し左翼的であったために、4年後鉄嶺の図書館に左遷されてしまいます。満鉄での7年の生活後退社し帰国して、一時期中華料理店を経営します。 下八川圭祐に師事し声楽を学び、音楽コンクールで「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」などを独唱して入賞します。 1933年に現在のキングレコードの前身である大日本雄辯會講談社レコード部の専属プロ歌手となり『河原月夜』『山は夕焼け』などを歌ってデビューします。その翌年には日本ポリドール蓄音機株式会社から『赤城の子守歌』を発表して空前の大ヒットを記録します。続いて『国境の町』も太ヒットし流行歌手として世に名を知らしめます。 その後はポリドール専属となって、『むらさき小唄』や『名月赤城山』『麦と兵隊』『旅笠道中』『すみだ川』『湖底の故郷』などをヒットさせ一世を風靡します。大戦中にはテイチクに移り軍歌や叙情歌なども歌いました。 戦後になると、東海林の戦前の流行歌が進駐軍の監視対象となるなどでしばらくは不遇の時を過ごします。1946年頃からは、地方公演などの機会も増え、1963年には任意団体日本歌手協会初代会長に就任するなどし、懐メロ番組などに出演するなどで再び人気を回復します。NHK紅白歌合戦にも通算4回出場している。 1972年9月26日、脳内出血のため死去しました。享年73歳でした。葬儀は史上初めての〔音楽葬〕でした。彼のヒット曲には次のものがあります。 |
『国境の町』 | 『赤城の子守唄』 | 『むらさき小唄』 | |
『麦と兵隊』 | 『名月赤城山』 | 『旅笠道中』 | |
『お駒恋姿』 | 『明日はあの山』 | 『お夏清十郎』 | |
『すみだ川』 | 『湖底の故郷』 | 『上海の街角で』 | |
『野崎小唄』 | 『忠治子守唄』 | 『陣中髭くらべ』 | |
『椰子の実』 | 『琵琶湖哀歌』 |